月別アーカイブ: 2016年6月

単純なしかたの、かたちの、方法としての道すじ。

ことばにしなきゃ欲求がふつふつ湧き上がっていた以前に比べて、

現状は休火山のように、そうした衝動はシーンと静まり返っている。

時折揺れ動く感情は、風に吹かれれば飛ばされてしまうし、

雨が降り続けばしとしとと沈みゆく。

そもそも、たくさんのことばはもうすでにいずれも、見渡す限りに溢れかえっているだけでなく、

気がつくと波にさらわれて大きな海の一部に溶け込む。

 

心地よいだろうか、

ひとつになって、

不安だろうか、

輪郭を見失い……

 

背負いこんだ荷物は、すきで集めたものばかり。

時間の使い方だって、囚われを外せば生き生きと弾み出す。

窮屈に退屈をして小言をする間におばあちゃんにはなりたくないし、

だれかのためを装った言い訳は、だれが見たってお見通し。

 

「ゆく川の流れは絶えずしてしかももとの水にあらず」。

もう十分に、だいじななにかは、いずれのだれかが残しているし、

鮮明で、近ずいて、つい触りたくなることばもあれば、

苔むした森の奥、ひんやり硬く年月を超えた、石のようなことばも佇む。

 

どちらにしてもことばは表面。

それらを通して、はじまる交流。

 

 

意味性も無意味性も総体化してみたい。

にんげんが作り上げたあれこれじゃなく、神さまが与えてくれたものは、手ばなしちゃいけないよって、喫茶店のマスターの受売りだけど、お気に入り。

 

 

”もう一度結びつける”場所

クートラスは”生”が好きだった。どんな醜悪な姿でも生きているものの姿が好きだった。

クートラスは愛情のある視線に見守られていることがいつも必要だった。

クートラスの描く天使は可愛い顔をしてハートを差し出しているエロスである。
優しくて子供のように純朴な、ちょっといたずらっ子っぽい表情で飛んでくる。
それで、油断していると、一瞬のうちに、とてつもなく大きな力に揺るがされ、夜よりも深くて暗いものが身体を包んでしまう。そんな神話の入り口みたいな接吻というのがあるものだ。……

『ロベール・クートラスの思い出』より

静岡県長泉町、ベルナール・ビュフェ美術館にて会期中の企画展、
ロベール・クートラス 〜僕は小さな黄金の手を探す

「僕のご先祖さま」の一枚と出会い、直感的に惹かれた相手。

出会って、対面し、彼と晩年を共にした岸さんの著書を読み、直感は計り知れない共感となりました。

彼の”生”へのこだわり。愛を求めて与えて、使い果たしていくような繊細さ。

残されたカルトやご先祖さまの肖像のなか、クートラスはいつまでも生き続けることができる”永遠性”の居場所を生み出せたのかもしれません。

こんなにも生きることにいのちを使えた彼が、たまらなくいとおしい。