”たとえ明日世界が滅びようと私は今日林檎の木を植える”
ーマルティン・ルター
2013年の9月に出版された、藤原新也さんの『たとえ明日世界が滅びようとも』という本の中で、その言葉を知った。この本が出版された当時、福島第一原発からわずか20キロ圏内の福島県沿岸部の町へと移り住み、汚染された土壌に咲く花を生け続けたひとりの花人がいた。
神々と動植物、にんげんと。
それぞれの関係性や、あわいをつなぐ存在について。
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”たとえ明日世界が滅びようと私は今日林檎の木を植える”
ーマルティン・ルター
2013年の9月に出版された、藤原新也さんの『たとえ明日世界が滅びようとも』という本の中で、その言葉を知った。この本が出版された当時、福島第一原発からわずか20キロ圏内の福島県沿岸部の町へと移り住み、汚染された土壌に咲く花を生け続けたひとりの花人がいた。
神々と動植物、にんげんと。
それぞれの関係性や、あわいをつなぐ存在について。
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冬は「ふゆ(増殖する)」の季節である。
”初期の日本の市場では、三種類の交換がおこなわれていました。市場は山から霊威ある精霊の化身を迎える「接待(イツ)く」庭と考えられるような特別な場所に設営され、そこには山の神をあらわす装束を身につけた山人が、「山づと(山からの贈り物)」をもって、群行出現したことが知られています。山は、里に暮らす人々にとっては、おそるべき霊威に満ちた領域で、そこに満ち満ちている眼には見えない霊的な存在が、市場にあらわれて山づとのような象徴物を、里人との間で交換するというのです。
また市場は歌垣のおこなわれる場所でもありました。若い男女が近隣や遠方からも性的なパートナーを求めて市場に集まり、そこで歌垣を開いて、気に入った相手を探すのです。そこでうまくいくと、将来の結婚相手がみつかります。結婚は女性を仲立ちにして、集団同士が結びつきをつくることを意味していますから、ここでも市場は社会的な交換を実現する場所だということになるでしょう。(中略)
日本の事例では、市場はきまって冬の季節に開かれた、と折口信夫は書いています。冬が「ふゆ(増殖する)」の季節であったからです。”中沢新一著『野生の科学』第5章 トポサイコロジーより
昭和の冬はまさにそう、増殖の”ふゆ”だと合点しました。 続きを読む