月別アーカイブ: 2015年10月

自然とにんげん、変わらないこと。

満月の夜は、なにやらそわそわと、どこかでもぞもぞと、なにかが蠢きあっているような、

ざわついた感じが漂いました。それもすでに過ぎたることの真昼のさなか。

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風の勢いに応じて流れゆく雲は、自分がどこに向かってどこに流れ着くとも知らず、

少し早すぎるから速度を遅めようなどと、調整する隙もなく、

風そのものの勢いや流れに身を任せ、どこまでも過ぎていくし、流れに乗っては運ばれていく。

 

どこかに到着し喜びを噛み締めることもなければ、移動の最中にかたちはどんどん変わり続ける、かなしみもうれしみも、流れ流れ刻々と変化。 続きを読む

神さまから離された両の手。

”「秋ですわね。」ややあつて、奥さんは さう言ひながら、空を見上げました。僕も釣られて、眼を擧げました。その日は、たしかによく澄みきつて、十月にはめづらしいやうな朝でした。ふと僕には、思ひあたることがありました。「まつたく秋ですなあ」と、口走ると、僕はちょつと両手を振つて見せました。すると、奥さんも同意するやうに、うなづきかへしました。”

ー 神さまのお手についての物語 『神さまの話』リルケ

まったく秋ですなあ。

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空気が澄みわたり、すっかりめっきり”気配”から”実体”へ。

淡く重なり合った透明なそらが、朝も夕もきれいな毎日です。 続きを読む

「見る」ことで遠ざかるもの。

「わたしは見た。」「それを見た。」

「見る」という行為それ自体は、どこまでも自由で、どの程度、どんな見方・受け止め方をしたとしても、誰に文句を言われる筋はないものだと思う。

自分が「見た」のであれば、見たことに変わりはないし、そこから何を感じたり、どんな印象を受け取ってももちろんいい。それこそ「見る」をはじめとした五感はどこまでも開かれたものであってほしいと思う。

けれど同時に、「見た」といってすぐに、一件落着したくないような気持ちになった。

目の前に一枚の絵画がある。

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私たちは、いま目の前にあるこの絵を、どれだけ「見る」ことができているのだろうと、混み合った展覧会場の列に並びながらぼんやり考えた。 続きを読む