通り過ぎてゆく
通り過ぎてゆく
通り過ぎてきた
通り過ぎたのだ。
様々に、
様々な、
それぞれの
営みによって、
これまでも
これからも。
そして、”風景”はいまもなお、
この場所に
この場所で
静かにスッと
佇んでいる。
あれもこれもしたいことが山済み。
あれもこれも追いつけなくて途方にくれてもしかたがないので
諦めて、宙ぶらりんにぶら下がったりどろんする。
焦りは禁物、世は情け。
*
分厚い本に囲まれて。
数千年かけて蓄積されていく蔵書はいまも日を追って増え続け、
これ以上増やしてどうするの?なんて立ち止まったらおかしな人で、
みんな必死で増やして進んで、みじかないのちをくりかえす。
ここやあそこに記された手触りのないことばたちはどこに保管されどこを漂う?
20世紀の百年は
人間が人間を超克しつづける時代だったかもしれないけれど、
ここへきて人間のなすすべはなく
自然と切り離し、強固に作り上げられたジャングルのなか
揺れ動く大地を鎮めることもできずに祈り方すら忘れてしまった
意味の追求も虚しくぶら下がったままかもしれない
意味をさがすのはもうやめたほうがいい
生かされているものが生かされている間にできることは限られている
誰かのせいも、誰かの真似も、誰かの目線もひゅーんと飛び越えて、
わたしのいのちに責任をもって、いまをいきる。
そしていまは進み続ける。
”彼は山頂にあって
「最高の山はどこから来たのか」とたずね、
「それが海から生まれた」ことを、岩壁に刻まれた証拠で確かめる。
「いとも高いものはいとも深いものが高まって成ったものだ」。”
なのだそう。
ニーチェ…
ツァラトゥストラ…
日本という島、は海から生まれた。
深い海の底から。
いとも高い山々はいとも深い海の底から海面を抜け、空をめざした。
ここはそういう島。
足元には眠りからさめた深い海の山々がひろがっている。
なみだを拭いて、生きなきゃいけない。
”たとえ明日世界が滅びようと私は今日林檎の木を植える”
ーマルティン・ルター
2013年の9月に出版された、藤原新也さんの『たとえ明日世界が滅びようとも』という本の中で、その言葉を知った。この本が出版された当時、福島第一原発からわずか20キロ圏内の福島県沿岸部の町へと移り住み、汚染された土壌に咲く花を生け続けたひとりの花人がいた。
神々と動植物、にんげんと。
それぞれの関係性や、あわいをつなぐ存在について。
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茨城のり子の有名な詩の一片は、タイトルの通り。
まん丸に追いかけてくるトンコロピーなお月さまや、今にも真っ赤に染まって溶けてしまいそうな夏の日の夕焼け、むせるように肌にまとわりつく湿気を含んだ空気とか、足元に痒みと共に記された幾つかの赤い斑点。
同じ木は木でも、色も違えば質感も違い、成長の速度、風や光の好み、わしゃわしゃだったりすっきりだったりしゃきーんだったり・・・
そうしたあらゆる自然の要素に、背中を後押しされるように、づんづん・ずんずん。 続きを読む
i love you ~
という歌い出しで始まる、トウヤマタケオさんのピアノ伴奏曲に合わせて、その物語は確かに立ち上がり動き出した。
パトリック・マグラア『オマリーとシュウォーツ』。
柴田さんの朗読の息遣いは荒い。
流暢に文字を追って読んでいくというのではなく、物語の奥までぐーっと入り込み、そのものになって躍動し語り始める。猫背な容姿でひょろりと立ち上がり、鋭く何かを捉えている眼差しからは、恐ろしいような、不気味な空気すら感じられた。 続きを読む
蛇を見たことがあるでしょうか。
薄ら暗い軒下のあたりや、石垣の隙間のようなところにはよく
脱皮した蛇の抜け殻があったことを覚えています。
蛇という存在を悪しきもの、邪なるものとして、神話や民話の中に登場させる姿もあれば、
ニシキヘビのように、一家の軒下に一匹いると、その蛇が家の守り神として
大事に、受け継がれていく場合もありました。
東京に出てきたばかりで、あまりにも不安げに頼りない日々を過ごしてきたことを思い返しながらも、この季節になると必ず、振り返らずにはいられない曲がある。
まだまだ涼しい夜風には少しずつ湿気の気配が高まり、これからさらに湿度が高まり、あのうだるような夏が来ることを思うと、待ち遠しいような、少しこわいような、なんとも浮ついた心持ちになる。 続きを読む
みるみる減っていく水かさを、どうにかしたいと考えたとき、
目減りしていくものをどのようにして止めればいいか、立ち止まって悩んでいては手遅れで、
其処に溢れていた水を、後になって取り戻すことはむずかしい。
いつまでもそこからこんこんと、湧きだしていたら良いのだけれど、
万物はあくまでも限りがあって、生き絶え、いづれ根も尽きる。
限りがあることを知ったから、いつかどこかの誰かが、井戸に水を貯めておくことを考えついたのか、どうにか自らの手で、その溢れや乾きを管理したいがためにダムのようなものを築き上げたのか。いずれにしても、水というものをコントロールすることはとってもむずかしい。
言葉と水はよく似ていて、実体が掴みきれない上に、言葉もよく氾濫するし、乾いてカラカラになったりもする。
適度な水分補給じゃないけれど、ちょうどいい具合に言葉の栄養を蓄え続けることはなかなか容易じゃない。
油断しちゃならないことは、企みを背負った言葉は時折身体をすり減らすということ。
立ち止まっても仕方がないので、せっせと井戸を掘り、根っこの部分をよく噛んで。
水分をしっかり蓄え、滋養に富んだ言葉を糧に少しずつ立て直す。
中條 美咲
空想力。次にこんな言葉が持て栄されたらいかがでしょう。
近年「◯◯力」と「力」が付くだけで、その言葉は一気に実力を発揮する様子なので。
今日から秋の土用入りとのこと。秋から冬へ・・・
この期間は土台は変化させずに、ゆっくり冬に向かって、備えをしたいものです。
季節は変化していくのに、なるべく変化させないように注意を払うって不思議な習わしですね。
変わりやすいとき程、慎重に。ということでしょうか。。
最近のマイブーム。
Coyoteからの、星野道夫、アラスカ、クジラ、谷川俊太郎・・・ 続きを読む