気持ちがはやる春。週末、思いつきで那須へ向かった。
天気も薄曇りで、北はまだまだ冬のなごり。
わずかに細雪がちらついていた。
目的は湯治、湯に浸りたかった。
那須には好きな温泉がある。その名も「鹿の湯」。
洗い場もシャンプーもドライヤーもない。
目的はシンプルに。服を脱いで、ただそこに身を浸すだけ。
常連さんも多く通う、生粋の湯治場。 続きを読む
気持ちがはやる春。週末、思いつきで那須へ向かった。
天気も薄曇りで、北はまだまだ冬のなごり。
わずかに細雪がちらついていた。
目的は湯治、湯に浸りたかった。
那須には好きな温泉がある。その名も「鹿の湯」。
洗い場もシャンプーもドライヤーもない。
目的はシンプルに。服を脱いで、ただそこに身を浸すだけ。
常連さんも多く通う、生粋の湯治場。 続きを読む
「感性と理性のあいだにあるものは何か?」先日、ある方からこんなお題をいただいた。
この間しらずしらず、すでに自分の前を歩く、圧倒的な迫力をもつ大人たちの言葉を受け取るばかりになっていた自分に気がついた。時間が経てば立つほど、わたしは投げられたたくさんのボールたちに埋め尽くされるように、窒息しかけているではないか。拙い出来ばえでも即座に自分の言葉で考えて投げ返さなくちゃいけない。それが健全さの基本の”き”。
受信と発信。入力と出力。
物事は常に往還する動きのなかで生き生きと生かされる。
動きを止めてしまうのは、心にも体にも不健全なんだということにようやく気がついた。
わたしはもう一度、ボールを受け取った自分に向き合いたいと思う。拙い言葉を紡いでいこう。
少しかための文章だけど、彼の問いを受けとったわたしの応答を以下にそのまま引用します。
昭和村のまとめもそうだし、出発点のこの場所に記していきたいことは山ほど溜まってる。
読みながら、一緒に考える足場となれたらいいなぁと、思います。
Q.「感性と理性の間にあるもの」とは
→ A. 人間的ないとなみ、人間的なふるまい
「何をもって人間的といえるのか?」 続きを読む
きのうから何度も、何度も、
繰り返し見ているこの動画。
COLDPLAYのup&up。
はじめはそれこそ、時空を超えて展開される映像の世界観に圧倒されていたのだけど、
なんどもなんども繰り返し見ていくうちに、そこに見え隠れするメッセージ性のほうにぐんぐんぐんぐん惹きつけられていった。
わたしたちが築き上げたもの、
わたしたちが描いた未来、
わたしたちが手に入れ、進んできた道のり、
進みたい、見てみたい、もっとたくさん、もっと幸せに。。
大地に線を引き、壁も作ったし、さらなる発展を目指して、開発をして、戦争もして。
もっとよくなる。もっと便利に?
どんどんいこう。いけるとこまで?
ひとりひとりの時間が有限なのと同じように、
水に満たされたこの星のなか、
ひとも、どうぶつも植物もみんなみんなで、限られた地球を共有している。
便利に満たされた時間のいっぽう、
家を追われて居場所を探し、おおきな影に追われ続けるこどもたちがいる。
純粋なまなざしで、かれらが見ているせかいに向き合う。
みたいものだけ見ていればいいの?
なりたいわたしだけ、追い求めればそれでいい?
国境も、言語も、時空すらも飛び超えられるこれからの未来。
人びとのもつイマジネーションがせかいを如何様にも変貌させられるとしたら、
そこには愛があるといいな。
おおきなおおきな、
海のように懐の深い
愛がすくすく育つみらい。
「もはや、社会とわたしは乖離している・・・?(クエスチョン・マーク)」。
人間は生まれた時には限りなく動物に近い存在ですが、時間をかけて教育を施され、社会に適応する「大人」へと、成長していく。
文明を築き上げ、それを維持・継続していく中で、「人間」としての豊かさを追求していくために、「社会化」は欠かせないひとつのキーワードなのだといえそうです。
*
ハンナ・アーレントの『人間の条件』を読みながら、人間とは、労働とは、活動とは、仕事とはなんぞや?!と、まじめさながらに感化されている今日この頃。
ちいさく、動きの鈍い頭はとつとつと揺れ動き、油断をすると霞みゆくこの目をめがけて、彼女のことばたちは鋭く突き刺さります。 続きを読む
”たとえ明日世界が滅びようと私は今日林檎の木を植える”
ーマルティン・ルター
2013年の9月に出版された、藤原新也さんの『たとえ明日世界が滅びようとも』という本の中で、その言葉を知った。この本が出版された当時、福島第一原発からわずか20キロ圏内の福島県沿岸部の町へと移り住み、汚染された土壌に咲く花を生け続けたひとりの花人がいた。
神々と動植物、にんげんと。
それぞれの関係性や、あわいをつなぐ存在について。
続きを読む
購読している毎日新聞では、日曜の朝刊に「今週の本棚」という特集があります。
その中で、山崎光 絵・山崎佳代子 文(西田書店)『戦争と子ども』という本への池澤夏樹さんによる書評に目が止まりました。 続きを読む
マルセル・プルーストの小説『失われた時を求めて』の中で放たれるこの言葉に込められた暗示を、わたしはこれから先の人生のなかで、少しずつ紐解いていかなければならないような気がしています。
「森はすでに黒く、空はまだ青い。」
全8冊からなる岩波文庫版を、読み終えるにはなかなか時間がかかりそうです。
*
このブログを始めて1年半が経ち、その間自分なりに興味関心があることを深めようと、手探りに人に会いに行き、話を聞いたり、本を読んだり、あちこちに足を運んでは、そこでの空気を直に「感じる」ということを率先して続けてきました。
その甲斐もあり、本来得意であった(むしろそれが唯一の武器であり弱点。鼻に付くもの。)自分にとっての「感受性・感性」というものを鍛えることは、少なからず強化されてきたのではないかと思っています。けれど、裏を返してしまうと、今までの行動は、目的を絞り込みとことんそれについて深めるというよりは、自分が一体”何を”求めているのかをひたすら闇雲に、漠然と”在る”だろう”何か”を探すために、手当たり次第に手足を伸ばし、視界を広げ続けた時間でもあったのだと思うようになりました。
そして実際のところ、そこで自分が「広がり」と感じているものは、あまりにも不安定で、漠然としていて、頼りなく「そう思う」「きっとそうだ」という程度にしか語ることのできない、ゆらゆらと揺らめくような心もとない、成分70%が思い込みの「広がり」と”思える”ものでしかないのでしょう。
ここから先、わたしは何を手掛かりに、どこに向かっていったらいいのか、この間に記録し続けたノートを読み返し、振り返ってみました。 続きを読む
重たく身に纏っているひとつが、「思い込みの鎧」ということに気づかされるばかりの今日このごろ。
どこまでいっても「わたし」としての一人称の視点が、こんなにもわたし(自身)を苦しめ、身体を重たく纏い付くしてしまっているというのは、言われなければ気づけなかったことである。
・・・
それと同時に、そうしたことを目の当たりにしたことで、より一層、本来の偏りがちのバランスは歪みを極め、一種極限的な力を発揮することにもなる。。
(もちろんそれは、あまり良いことだとは言えません。) 続きを読む
あっという間に7月も残すところ二日となりました。
月日の流れがこれほど早く感じたことは初めてです。
初めてと同時に、今後はますます、こうした回転は早まって感じられるようになるのでしょうか。
年を重ねなければ、気づけないことはこれからまだまだたくさん有りそうです。
今日はよく歩くことと、よく生きることについて。
みなさんは「歩く」時に、なにを考えていますか?
何かを考えながら、音楽を聴きながら、特になにも考えずに、なんとなく…
そこには、単には括れないいくつもの「歩き方」があるということを、ジリジリと暑い灰色の道を、とつとつと歩きながら漠然と考えました。 続きを読む
あまり気負いをせずに、自分だけで追求しようとせずに、少しだけ肩の力を抜いた文章。
日々、急勾配するのではなく、その場の空気感、言い換えてみると『エッセイ的な気楽な試み』を意識して、できれば毎日週5日、書いてみる方式に慣れていこうかと検討中。
文章自体、あまり長くならない程度に。せいぜい1200字くらいにまとまるように。そして「自分」の存在を限りなく透明にして。続くかな・どうかな。新しいこころみです。
*
しばらく前から「 紡ぎ人 (つむぎびと)」というキーワードが頭のなかをねりねりしている。 続きを読む
久しぶりに、女性性について思い込み全開で、書いてみたいと思います。
きっかけは、YUKIの新曲PV。 シシヤマザキさんとのコラボレーション作品『好きってなんだろう・・・涙』のPVがまるっきり、ふんだんに、女性性 ”バクハツ” の内容となっており、嬉々と興奮したことから。
女性性について、実は半年ほど前に一度だけ触れたことがある。
そこでは、コーヒーと本を片手に、「彼女たちは思想を手にしようとしている」という内容で、哲学を求め始めた女性たちは、一体どんな未開の力を秘めていて、これからどうなっていくのか、その成長を見守っていきたいと書いた。(その姿のどこかに、自分自身の願望を重ねていることは承知の介。)その時、ブログの最後で、わたしはこんな風に記している。
「その火種は巨大に成長したり、爆発したりしない。ゆっくりじっくり。奥までじわじわと。食べて生きて産み育てる為の火種。そういう類いであってほしい。」
2014年11月24日 彼女たちは思想を手にしようとしている|紡ぎ、継ぐ
そう書いておきながら、今回は「バクハツ」と記すことにした。・・・そう、「爆発」。そこにはとても熱いエネルギーが充満している。まるで各地でふつふつと活発化して、今にも溶け出してしまいそうなマグマのように。
女性性は今年に入り、急速に成長し、解き放れ、止めどなく流れ出しているように感じる。(ずいぶん都合のいい勝手な思い込みの視点かもしれないけれど。) そんな風にして、近年、周りの女性たちは、それこそ自分の手で、今まで歪み続け、そのまま進んできてしまっていたあらゆる「バランス・調和」を、元に戻そうと動き始めた。(という仮説) 続きを読む
すばらしい一冊の本に出会ったとき、その本はいつ書かれたものであるとか、著者の生まれた西暦から今現在を逆算し、生きていれば何歳。であるとか、何百年も遡った時代から、すでにこんなことが考えられ、憂い、変化させようと行動にあたる人たちがいたんだ。ということに直面し、気づかされ時、どうしようもなく多くの感情がうごめきだしたりする。
*
最近いろいろな方面から、生き方・働き方・暮らし方・住まい方、大きな資本や産業革命が押し寄せてくる以前の各地域に根付いていた人々の暮らしの在り方について、興味を喚起される機会が多く、それにまつわる本を開いてみたり、話をきいたりしているのだけれど、その中で、とくに掘り下げてみたいと感じたひとつが『民藝』という切り口だったりもして。。
知識がないなりに自分で考え、それについて書かれたものを読んだり、触れたりしていく中で感じることは、『民藝』の「民」に当てられた「民衆」という価値観が今ではほとんどその当時使われていたのと同じようにはイメージできないということ。 続きを読む
先日、横浜「街のシェアスペース BUKATSUDO」で行われた ナカムラクニオさんと、内沼晋太郎さんのトークに参加して。そこで話された内容と、そこから感じたことをまとめていきます。
前回参照:BUKATSUDOの文化祭。勝手に潜入レポートの巻。
はじめにナカムラクニオさんについてですが、わたしが一番はじめにナカムラさんの存在を知ったのは、屋久島ナイトの行われた2011年か12年ごろだったと思います。その頃はまだ、6次元という場所がどういう場所であるのか、ナカムラさんがどんな活躍をされているのか知ることもなく、以前屋久島でガイドを担当していただいた小原さんが講師にいらっしゃる。とのことで参加を決めました。 続きを読む