それぞれの信仰」カテゴリーアーカイブ

食べるの”闘い”と、生きるという仕方。

降って降って降り続いた雨が上がると、
忘れたつもりで箪笥の奥にしまいこんだ残りの暑さを思い出す。

あぁ、まだ暑くなるのね。つい先日のはずの夏が、やけになつかしく感じます。

気分はすっかり秋なので、おすそ分けしてもらった栗を剥いて栗ごはんをつくりました。

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実家の畑でとれた栗。 続きを読む

森はすでに黒く、空はまだ青い。

マルセル・プルーストの小説『失われた時を求めて』の中で放たれるこの言葉に込められた暗示を、わたしはこれから先の人生のなかで、少しずつ紐解いていかなければならないような気がしています。

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「森はすでに黒く、空はまだ青い。」

全8冊からなる岩波文庫版を、読み終えるにはなかなか時間がかかりそうです。

このブログを始めて1年半が経ち、その間自分なりに興味関心があることを深めようと、手探りに人に会いに行き、話を聞いたり、本を読んだり、あちこちに足を運んでは、そこでの空気を直に「感じる」ということを率先して続けてきました。

その甲斐もあり、本来得意であった(むしろそれが唯一の武器であり弱点。鼻に付くもの。)自分にとっての「感受性・感性」というものを鍛えることは、少なからず強化されてきたのではないかと思っています。けれど、裏を返してしまうと、今までの行動は、目的を絞り込みとことんそれについて深めるというよりは、自分が一体”何を”求めているのかをひたすら闇雲に、漠然と”在る”だろう”何か”を探すために、手当たり次第に手足を伸ばし、視界を広げ続けた時間でもあったのだと思うようになりました。

そして実際のところ、そこで自分が「広がり」と感じているものは、あまりにも不安定で、漠然としていて、頼りなく「そう思う」「きっとそうだ」という程度にしか語ることのできない、ゆらゆらと揺らめくような心もとない、成分70%が思い込みの「広がり」と”思える”ものでしかないのでしょう。

ここから先、わたしは何を手掛かりに、どこに向かっていったらいいのか、この間に記録し続けたノートを読み返し、振り返ってみました。 続きを読む

山門をくぐり耳にした「かなしきのうた」

「かなしきのうた」阪村真民

たたけたたけ
思う存分たたけ
おれは黙って
たたかれる
たたかれるだけ
たたかれる

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早朝の山門をくぐり抜け、鎌倉円覚寺の夏期講座で和尚さんから耳にした詩の冒頭。
「かなしき」とは、鍛冶屋の鉄砧(かなしき)・鉄床のことを歌っているそうで、和尚さんはこの詩になぞらえ、「たたかれてたたかれて揺らがないものができる。そしりとほまれの間で揺らぐことがない(精神)が生まれる」と、無関門「離却語言」についてお話をしてくださいました。

今期で80回目の開催となる円覚寺の夏期講座、4 日目に集まった人々はおおよそ千人。
お堂から溢れた人は廊下や下駄箱、縁側や庭先に溢れ返り、みな熱心に姿は見えずともマイク越しに聞こえてくる講師陣のお話しに耳を傾けます。
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民藝と、エネルギーからつながるユートピア

すばらしい一冊の本に出会ったとき、その本はいつ書かれたものであるとか、著者の生まれた西暦から今現在を逆算し、生きていれば何歳。であるとか、何百年も遡った時代から、すでにこんなことが考えられ、憂い、変化させようと行動にあたる人たちがいたんだ。ということに直面し、気づかされ時、どうしようもなく多くの感情がうごめきだしたりする。

最近いろいろな方面から、生き方・働き方・暮らし方・住まい方、大きな資本や産業革命が押し寄せてくる以前の各地域に根付いていた人々の暮らしの在り方について、興味を喚起される機会が多く、それにまつわる本を開いてみたり、話をきいたりしているのだけれど、その中で、とくに掘り下げてみたいと感じたひとつが『民藝』という切り口だったりもして。。
知識がないなりに自分で考え、それについて書かれたものを読んだり、触れたりしていく中で感じることは、『民藝』の「民」に当てられた「民衆」という価値観が今ではほとんどその当時使われていたのと同じようにはイメージできないということ。 続きを読む

写真、光の描き出すもの

先日、あーすぷらざ(神奈川県立地球市民かながわプラザ)で行われた写真家・野町和嘉さんの講演会「聖地巡礼」に参加した。

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                                 画像引用:あーすぷらざ

はじめに脱線しておくと、「地球市民かながわプラザ」ってすっごく大それた施設名だなぁという驚きが少なかからずあったのは間違いない…。察するところ、それ位の視野を持って ”地球全体を俯瞰できるような市民を育てていきたい ”というような強い熱意のもとの命名なのでしょうか?

実際のところはわからないけれど、結構なインパクトがありました。
おおきな目でみたら、あらゆる枠組みや国籍も越えて、わたしもあなたも「地球市民」。
結構かっこいい理念かもしれない。
話を元のレールに戻します。講演会があることを見つけてきてくれたのは彼なのだけど、偶然にも「聖地巡礼」という写真展、2009年に東京都写真美術館で開催された時にひとり足を運んだことがあった。

不思議なことに巡り巡ってもう一度、野町さんの「聖地巡礼」と対峙することができたのだった。 続きを読む

” おわりからはじまる ” 反転力の回復。

物語は必ずしも直線方向には出来ていない。

というよりもむしろ、直線方向ではない螺旋的な混沌の中からこそ、生まれ得るものなのではないかしら。・・・と感じた。
先日B&Bで行われた「ケルトと日本 その装飾的思考と神々」というイベントで、作家・編集者の畑中章宏さんが進行役として多摩美の教授をされている鶴岡真弓先生のお話を伺った。

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                    ー「ケルズの書」より

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神々に触れる旅。

週末を利用して奈良と伊勢へ旅に出た。
ちなみに駅でよく見かける「いまふたたびの奈良へ」というJRのポスターは印象的。

主な目的は、去年の旅行で訪ねることができなかった奈良の室生寺(十一面観音さまにお目にかかること)と法隆寺でバッハを聴くこと…
加えてお伊勢さんへのおかげ参りを兼ねたもの。

最近不定期で活用しているnoteに載せた文章を転載してみる。こちらのほうが鮮度が高い。

IMG_0142 続きを読む

山と結びつきながら

以前、屋久島を訪れた際に宿泊先の民宿のご主人が話していたことばをここでも思い出す。

「昔の島民は、日常的に山には近づかなかった。」近づくことは一種のタブーで、大事な祭事がある時に限って、選ばれた男性たちだけが山に登ることを許された。

 

吉本隆明さん・梅原猛さん・中沢新一さんの鼎談本「日本人は思想したか」の中、日本人の「思想」の形成という章で中沢さんが話されていることとも結びつく。 続きを読む

両義的思考の豊かさと危うさ

中沢新一さんの著書、「緑の資本論」を読んだ。資本論に興味は少ないが、「緑の」というところに興味を持った。

   序文        7
圧倒的な非対称     13
緑の資本論       37
シュトックハウゼン事件 129

モノとの同盟      145

 

理解力が乏しいせいか、前半は少し難しい印象を受けた。読み進めていく中で「シュトックハウゼン事件 — 安全球体に包み込まれた芸術の試練」という章が結構な衝撃として印象に残った。かなり長くなるけれど(本当に!)、本文の内容を引用して残したいと思う。 続きを読む