借りものから生まれる。(『日本語の遺伝子』について)

ひとつの借りもの・前提として。

わたしは ことば の世界がすきだ

そこに浸かりきっていると とてもここちがよくて 穏やかな気持ちになる

と同時に ことば はからっぽの箱のようなものだ

ことば 自体に意味なんてない

そんなこと、ずーっと昔の人も気づいてる

からっぽの 意味のない ことば を大切にする

愛おしくおもう そこには何かしら意味があると思い込む

ことば に意味は・・・ない。

ことば は武器だ ことば は術だ

 

ことば は・・・・

 

ことば はどこだ
わたしが 出会いたい ことば は

 

少し前。8月の終わりころ、ノートに記した「ことば」の一部。

詩にもなりきれず、宙に浮かんだままの問いかけ。

 

からっぽのハコモノのことばについて考えていたら、なんだか知らないけれどここ最近、わたしの目の前にちらほらと「日本語」について書かれている読み物が登場してくる。直接触れようと思わずとも、勝手に訪れるようなイメージ。

これをときに人々は「タイミング」などといってみたりする。

 

そう!まさにそんなタイミング。
日本語について、にほんごで考えてみようじゃないかと、こんなチャンス又とないよ?と、思うでもなく。それでもせっかくなので書いておこうかと。そんな事の次第。

毎度のことながら、長い前置き。

 

ここからが本題。

定期購読している、スタジオジブリ機関誌「熱風」が今月も届いた。とてもかわいらしい装丁で、毎月届くのが楽しみでわくわくしてしまう。

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画像引用元:スタジオジブリ出版部

そんなジブリらしい?かわいらしい装丁をよそに、その月ごと組まれる「特集」は時に衝撃のような、強さのような、敢えてそこに切り込んでいくかというような・・・血気盛んな内容が盛り込まれることもわりかし多い。

今月号の特集は『日本語の無くなる日』。とてもインパクトが強い。

え?日本語って無くなる日が来るの?・・・・

日常で使っている「ことば」をはじめ、あらゆるコミニケーションツールはここ数年、数十年の間に随分変化したと言われている。(それすらずーっと昔から言われ続けてきたんだろう。)
そういった流れの中で、日々過ごしている自分にとってはその変化すらほとんど気にならない。気づいたら自然と浸透していて、携帯電話からスマートフォンへ。手紙からメールへ、メールからLINEへ。またその先へとどんどん後退と前進を積み重ねての今がある。
そういう意味では、日本語から英語へ、共通言語が移行したとしても、それ程おかしな話でもない。

それでもやっぱり突きつけられるとけっこうな衝撃が残る。『日本語の無くなる日』。

この特集は、『ネットで「つながる」ことの耐えられない軽さ』という本を出版された藤原智美さんという方へのインタビューから始まる。

なるほど。と思うところもあれば、少し極端かな、と思うところもありつつ、印象に残ったのはインタビュアーとのこんなやりとり。

「日本語が無くなる」とは、どういうことか

— 確かに、日本人は英語を取り入れることに抵抗がないし、むしろ損得として、英語を話せた方が有利だと考える人は多いと思います。言葉というのはある意味では ”生き物” と呼ばれているように、コントロールできない、世の中の動きに合わせて時代ごとに変化していくものです。すでにひと時代前の書き言葉ですら、今の若い人は読めないし、仮に『源氏物語』の日本語を美しいものだと仮定しても、紫式部の時代の言葉はとうに失われてしまっています。

 前提として、僕は日本語が美しいとか好きとか以前に、日本語で育ち、日本語で思考している人間です。だから、これは守らなければいけないものだという意識があります。もうひとつは、表記言語としての豊かさ。(中略)表現の幅の広さだって、世界でも冠たるものであることは間違いないと思う。
それに日本語が失われていくということは、単に言語そのものがなくなるだけではない。思考が変わっていくことにもつながると思うのです。

(中略)
日本語というのは、英語と違って、いわゆるべらべらとしゃべる文化じゃないんです。だから、例えば小津安二郎的な、せりふとせりふの間の ”間” というものに対する価値みたいなものは、アメリカ的な、英語的なところにはあんまりないと思うんです。(中略)もし学校教育で今以上に英語教育が優先され、「日本語はそこそこ話せて作文ができればいい」ということになれば、その先私たちが生み出していく文化は、その安っぽい日本語を土台にしていかなければならなくなります。

また、コラムニストの小田嶋隆さんの指摘もとても印象的だった。

「文語射程の短兵化傾向について」

果たして、日本語は、「乱れ」ているのだろうか。
簡単には断定できない。
ひとつだけ言えるのは、インターネット上の文章は、射程が短いということだ。
「射程が短い」という言い方には、二つの意味がこめられている。
ひとつは、時間的なスケールが短いということだ。(中略)
もうひとつの「射程」の短さは、序論から結論に至るまでの行数の短さだ。

(中略)
最も高い水準の規格を失ったら、その国の言語の美の大きな部分は二度と回復されないはずだからだ。
とはいえ、私はそんなに悲観していない。
たぶん、20年もすれば、現状のインターネットとは別の、さらに圧倒的に短兵急なコミュニケーションツールが発明されるはずで、その結果として、事実上のテレパシーを手に入れたわれわれは、その無味乾燥に目覚めて、古い言葉を探す旅に出るはずだからだ。

古い言葉を探す旅に出る・・・。なんだかロマンチックでそれも素敵。

けれど実際にそんな状況下では、「無味乾燥」。殺伐としてうんざりしてしまう心持ちの方が圧倒的に強いのかもしれない。

どちらにせよ、「ことば」無くして人の考えてることが手にとるようにわかるなんて、本当に嫌な話だ。

 

読み始めたばかりの吉本隆明・梅原猛・中沢新一さんの鼎談本。『日本人は思想したか』の中でも日本語の遺伝子について書かれていた。引用すると更に長くなってしまうので、印象的なキーワードをいくつか挙げていく。

日本語という遺伝子

中沢 つなげていくものとしての日本語

その家の中に住みついた人間がそれを伝えていく

梅原 近代詩の中心は比喩

吉本 日本語はもともと自然との交感を使わなければ言おうと思っても何も言えなかった

比喩のほうが本当であって、本当に意味することは隠れているというようなのが一番   最初にあった

 

最後に。

このブログ上をはじめ、実生活のあらゆる場面で使っている(使わせて頂いている)”ことば “たちの多くは借りものだ。

「借りもの」のことばで、さも、それが自分から涌いて出たように、「発見」とか「気付き」とか簡単に言うことが出来てしまう。

今に影響を与え続ける人たちも、こころのどこかで「すでに昔の人々が感じたことだろう」などと思いながらも彼らなりの「ことば」を掘り下げ続けた結果の今かもしれないし、それは万人が発見し出会うことができる “ことば “なんだろう。

 

わたしが出会いたい ”ことば ” はどこにあるか。

気の遠くなるほどに積み重なり、折り重なる「日本語の遺伝子」の中からいつの日か、借りものではない自分なりの ” ことば ”に出会える日が来たら、それは紛れもない授かり物になるのだと思う。

 

・・・そうしてようやくいつの日か。借りものから何かしらの意味を生み出した彼らは、とんでもなく紛れもない授かり物を賜ったと溢れんばかりの喜びに三日三晩踊り、酔い、唄い、未知なる「日本語」の世界へとより一層の畏怖の念と、さらにその奥深く、まだなにか得体の知れない魔物が潜んでいるんじゃないかと思えてならない今日この頃でありましたとさ。 — 遥か彼方のむかしから・・・ おしまい。

 

それではこの辺で。

中條 美咲