(普遍ときどき芸術)…自然の研究から生まれるもの。

只今、まとめてインプット旋風が巻き起こっています。

冬は閉じられ夏は開かれ・・・みたいなこともあるのでしょうか?

 

旋風は所詮突発的な現象なので、やがて落ち着き、静まり、また新たな旋風を巻き起こすのでしょう。

そしてわたしは毎年夏になると(おそらく)手足口病を煩います。今年も例によって、手の関節や膝周りがぽつぽつ. と・・・かゆいような痛いような。

これは夏風邪の一種らしいのですが、風邪というよりは、体が夏に間に合ってないような。そんな感じがします。

さてさて。

 

最近また音楽採掘をしている。

音楽もその都度自分の中でブームのような旋風のような. 寄せては返す波のようにじわじわとその範囲は広がっていく。

何枚かCDを借りた中、細野晴臣さんの「MONAD BOX」という4枚組のアルバムのライナーノーツに記されていた彼のコメントがとてもかっこよかったため、忘れないようにここに引用したいと思う。

以下は1985年。この4枚のアルバムが発売される際に「MONAD news No.1」という媒体に掲載された言葉らしい。

ブリュッセルほど暗くなく — つまり日本独自の散逸構造の明るさ —
NYほどヘヴィーでなく — 日本の若者のなんと希望的軽やかさよ —
BGMほど軟弱でなく — このことは言うまでもあるまい —
アカデミズムに寄りかかることなく
— 音楽にはそれ自身以外、何の保証もないではないか —
環境音楽に閉じ込められることなく
— 閉じた世界には恐ろしい変化もないかわり、新陳代謝もない……
これは私たちの身体によくないね —

シューベルトもバッハもサティもシューマンだって好きにさせたりしてみたい。
これ全てノンスタンダードに裏打ちされた前衛の聞き方。
新しがりやと古典趣味の両極にも負けず、
雨にも負けず、風にも負けず、行く者を追わず、来る者を拒まず、
そんなレーベルにモナドはなりたい。

細野晴臣

ちなみにこのシリーズは観光音楽として制作されたそう。その際のスタッフの意向も引用してみる。

「観光音楽とは細野晴臣が色々と旅をし、自然の中を歩きまわった時に受けたインスピレーションを自動筆記のように音楽的にまとめあげたものです。

聴く人に瞑想感を与える点では環境音楽と同様ですが、この細野晴臣の音楽では単にイマジネーションを音楽化するのみでなく、自然=地球と一体感をもつダイナミズムや覚醒感に溢れています。

観光音楽には安らぎ、幸福感、刺激、大地との一体感など現代人が求めているものがぎっしりとつまっています。その意味では最も大衆的になり得る音楽です」

 

発売当時、このアルバムはどうも鳴かず飛ばずだったらしい。
2002年に書かれたこのライナーノーツには「17年早かった、時代がようやく彼に追いついた、一言で言ってしまえば、そういうことだ。別の言葉で言えば、いまならこの音楽を何の説明も必要なく楽しめる人が当時よりはるかにたくさんいるだろう。」と記されている。

 

最後に。

「普遍的ってなんだろう?・・・」とここしばらく考える機会が多かったりしている中で、今回引用した内容は丁度よく、わたしの中に跳ね返って来てくれたのでここに書き残すことにしました。

遡ること29年。彼が作り上げた音楽は現代的そのものといっていいような感じがします。(現代的のなんたるかを知る由はありません。)

30年経っても色褪せないどころかばっちりその時代に馴染んでしまうということはおそらく普遍的なのでしょう。しかも大衆的という!
更に時が経過して100年、200年経っても生き残っている音楽や文学、あらゆる芸術や思想はまさに時の経過をもって普遍的ということを証明しているのでしょう。

ではこの先、更に加えて”普遍的”を生み出す隙間(必要)って今もまだ残っているのでしょうか?(— 過去に我々が既に遣り尽くしたではないか)

 

そうだとしたら、一周でも二周でも三周でも・・・。
ロダンが「芸術とは自然の研究以外何物でもない」といったように。

教えてくれるのはいつも(必ず)自然の側ではないかと思ったりしてみたり、

 

どこまでも広く、どこまでも深く。全ての可能性を持ちながら、挑戦することを楽しみながら。

選び取って決めているようで、如何様にも変化し、自ずと決まってくる。

 

全ては球のなかで。

 

とてもいいアルバムなので、夏の夜におすすめします。

それではこの辺で。

中條 美咲