旅というのは、当日までの予定を組み立てている期間や、目的地まで移動している時間の待ち遠しさが圧倒的で、実際に到着してからの旅先での時間の流れはとても早く、過ぎてしまえば一瞬にしてどこか静かな場所に追いやられてしまい、その後光を浴びる機会がなかなか訪れなかったりするものなのかもしれない。
6月も明日で終わる。
滞っている、京都の続きを書こうと思う。西芳寺の後、桂離宮に訪ねたところから・・・
参照:苔とお庭と、雨とお経。
今月号のGINZAで、橋本麻里さんが「KATSURA」という本について文章を書かれていたので、引用したい。
「KATSURA」
凝りに凝った造作は、東照宮にも通底する過剰さを濃厚に感じるが、我々の「イメージとしての桂離宮」は石元泰博が撮影した、軸から新御殿の屋根を切り落とし、足下の芝生と建物とを画面の真ん中でぶつけるというモダンで抽象的な「桂離宮」に呪縛されている。
写真引用元:http://www.art-index.net/art_exhibitions/2010/10/post_1107.html
皇居、京都御所などと同じく、宮内庁の管轄である桂離宮は事前の申し込みの元、参観することが出来る。宮内庁のHPにはこのように書かれている。
”17世紀の初めから中頃までに、八条宮初代智仁親王と二代智忠親王によって造られたもので、日本庭園として最高の名園といわれています。”
建築物としてもとても優れているようで、旦那さん達ての希望で今回訪れることになった。
西芳寺を後にしたあたりから、本格的に降り出し、桂離宮は降りしきる雨の中の参観となった。
宮内庁管轄の施設ということで、事前の申し込みは必要だが、参観料は発生しない。その代わりに管理の徹底ぶりにまず驚いた。
一度に入場出来るのはおおよそ30人。先頭に立ち、建物について説明してくれる方が一名と、間隔が開かないように、時間が押さないように、最後尾から促す方が一名。この二名に挟まれるかたちで、ほぼ自動的に進んでいく。
立ち止まって写真を撮ったり、後からじっくり眺めることはかなり難しい。
敷石から少しでも地面に足を踏み入れるとすぐさま注意されてしまう。
それほど厳重に監視が行き届いた中での参観。雨だったこともあり、滑りやすい石畳を歩くのに集中し余計にじっくり見ることが難しかったような気もする。
なので正直なところ、400年以上昔に完璧なまでの造形を凝らし建てられたこの建物について、自分の中で何かしらの想像を膨らませる余裕もなく自動的に参観しあっけなく終わってしまったというのが、今のところ私が桂離宮に対して感じた素直な感想ということになりそうだ。
そうはいっても要所要所に月見スポットなどもあり、庭造りへの徹底的なこだわりなども感じられ、もう少し知識を深め、ゆっくり見て廻ることが出来ればもっと深く楽しめたのかもしれないと思ったりしている。
最後に。
三好義和さんの写真集「月の桂離宮」の中から、千住博さんが語る桂離宮についての文章を引用して終わりたい。
月を見る装置
千住博
しかし、その慌ただしい日常の速度は、庭園に足を踏み入れた途端に通用しなくなった。
苑路の飛石は一つ一つが形も大きさも素材も異なり、そして石から石への間隔もせまく、自然にゆっくりと歩かされることになる。
急いで歩こうとすると、滑りやすい石なので足元ばかりに気をとられ、景色が目にはいらなくなる。私は急がなければとのはやる気持ちを抑えられ、庭園が指定してくるペースで否応なく歩かされていた。
私は、一歩ずつ歩くことにより、変わってゆくのは風景だけではないことに気が付いた。
風景も変わり、私も変わる。すべてが変わってゆく。
私もこんな風に感じてみたかった。
そして不満のようなことも書いてしまったが、このような重要な建築物が一般公開されているだけでも有り難いことだと思うので、また機会があったら季節や時間帯を変えて改めて訪れてみたいと思う。
月を見るにはこれ程の場所はないのだろう。
それではこの辺で。
中條 美咲