相反する祈りとかたち。

日曜日。東京藝術大学美術館で開催中の「聖徳太子のお寺に満たされる。法隆寺ー祈りとかたちー」展に行ってきました。本当はトーハクの法隆寺宝物館目当てだったのですが、今月いっぱい宝物館は休館とのことで…。

写真-6

 

上野の森はたっぷりと雨を染み込ませ、緑を一層深めていました。

 

先日の京都・奈良の旅では泣く泣く訪問を諦めた法隆寺。

今更ながらどうして無理してでも行かなかったのだろうと。未練たらたらです。
未練を原動力に、次に行く時に向けて、気持ちを高めるしかありません。

 

旅を挟んだことで強く意識したことは、お寺で見るそれらと、美術館でみるそれらが同じ仏像や画などであっても場所が変われば全く別物の意味を持つということです。

鑑賞を目的として美術館に足を運ぶことと、祈りの対象としてそこに足を踏み入れること。

これは根本的に違うところが出発点になっているのでしょう。

だから私たちが例えば祈りの対象である寺社仏閣や教会などに足を踏み入れる時、(たとえそれが観光の一環であろうと、または極端に観光地されてしまっている場合であろうと)それについて自覚を持つことは最低限のマナーなのかもしれないな。と・・・そんなことを感じたりしたのです。

 

京都二日目の話をしばし回想します。

 

京都二日目は朝からどんより重たい空模様でした。

朝一番で、ホテルから程近い西本願寺へ。

ここは親鸞聖人が開いたお寺だそう。とても大きく、当時からさぞ多くの人々の拠り所となっていたのだろうなぁと。
朝の8時前でしたが、自由に御影堂・阿弥陀堂へ上がり参拝することが出来ます。

お寺の板廊下を歩く時のじんわり軋む感覚がとてもいいなぁと思いました。

本当は飛雲閣の見学ができれば良かったのですが、こちらは一日一回のみ。事前に予約を入れなければ入ることができないそうで、今回は日程的にあえなく諦めました。

 

そしてそこから歩いて東寺へ向かいました。東寺へ向かう途中、登校中の学生さんを多く見かけたのですが、ほうじ茶色の制服でみんな随分賢そうだな〜と思って何気なく見ていたら、どうやら洛南中学校の生徒さんたちだったみたいです。

この洛南付属中学校と高等学校は東寺の境内にあり、真言宗の各派によって設置されたとのこと。

そういった意味でも、京都に深く根付いた学びの場なのかもしれません。

 

東寺の拝観は8時半から。少し早く着いたので境内の北西側に位置する御影堂のあたりのベンチでぼんやり休憩をして待つことにしました。(きっとこの一日は長くなるだろうと)

 

この休憩中にみた、何気ない日常の景色がある意味では、この旅の中で一番鮮明な記憶として私の中に残っています。

 

今回は色々と混ぜ込んだものになっているので、それはまた次回に見送ろうと思います。

 

 

最後に。

記憶も生もので、日が経つに連れ多くの感動(と思っていた感情)はふるいにかけられて薄れてしまいます。

後々まで残るもの、時間が経つに連れじわじわと浮き出してくるもの。そんなところにほんの少し、何かしらの手立てだったり、ほんとうに自分にとって必要なもの(みたいなもの)が隠されているのかもしれません。

全然違う場面での文句ですが、黒田さんの言う「忘れる程ほっとけ」ってこんな場面にもしっくり合うもんだな〜と。参照:ものづくりの極意

 

 

さっき少し降り出した雨の音が、今はもう止みました。

さいきん雨のことばかり呟いていて、どういうもんだろうと自身へのギモンを投げかけてみたり。

もしかしたら”身体”のほうが頭で考える”あれこれ”よりも根本的な部分をよくわかっているのかもしれませんね。参照:「カムバック中世」という予言的な暗示(養老孟司&内田樹トークより)

 

と思ったらまた水の滴る音が少しきこえてきました。人工的な音が少ない生活に慣れると、意外とたくさんの自然の音が耳に心地良く感じられます。

それほどの自然がある場所ではないと思っても、気付いていないだけで、多くの自然がここにも存在しています。

 

それではこの辺で。

中條 美咲