無駄のある暮らし

先日、東京都町田市にある 旧白洲邸ー武相荘ー に行ってきました。

白洲邸とは、故 白洲次郎・白洲正子の自邸。
太平洋戦争開戦間近の1940年。「日本とアメリカが戦争になれば日本は負けることが明白であり、物資の不足が懸念される。」と次郎はいち早く予測を立てました。食料不足になっても困らないようにと田畑つきの農家を探し、東京からほど近い鶴川に`43年に移り住み始めたそう。疎開のつもりがそのまま住み続け、武相荘はお二人の終の棲家となり、現在は長女の桂子さんが館長を務め、一般公開されています。

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雪が残り、梅が咲き始めた2月末。〈ぶあいそう〉という手作りの表札を横目に訪れた先には茅葺き屋根の立派な日本家屋がありました。

日曜日だったのですが、来訪者はちらほらとしかおらず、お庭の隅には積もった雪で作ったかまくらがあったり、丁度咲いたばかりの梅の木があったり、おうちにお邪魔する前からタイムスリップしたような、わくわく・そわそわした気持ちになりました。

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お家の中へは靴を脱いでお邪魔します。

ご自宅内の様子を書き始めるととりとめがなくなってしまうので割愛。

印象に強く残ったのは一番の目的だった正子さんの書斎。
あらゆるジャンルの本が並ぶ本棚は重さで波打っていました。中には繰り返し読まれたのか年期が入った背表紙をご本人がマジックで大きく書き直してある本が何冊もありました。
そんなところから、本を読むのとは違うかたちで、正子さんの人となり(のようなもの)を垣間見ることが出来たような気がします。

また、次郎さんから婚前 正子さんに送られた手紙が展示されていたのですがこれには痺れました。

”You are the fountain of my inspiration and the climax of my ideals.”
「君こそ僕の発想の源であり究極の理想だ」

こんなことをいわしめてしまう白洲正子とはどんな女性だったのでしょう。

まだお二人のことは知って間もない状態で、それでもなぜだか白洲正子に憧れを抱き、訪ねてみたところ、ますます魅力的すぎて、いつか!わたしも彼女のような独自の審美眼を持ったかっこいい女性になりたいと、強く心に思ったのでした。

ここまで書いてみて。今のわたしの力では、白洲正子さんの魅力を殆ど伝えられないように思うので、『縁あって』という著書の中で武相荘について書かれている文章を一部引用してみたいと思います。

無駄のある家

手放すくらいだからひどく荒れており、それから三十年かけて、少しづつ直し、今もまだ直し続けている。
もともと住居はそうしたものなので、これでいい、と満足するときはない。綿密な計画を立てて、設計してみた所で、住んでみれば何かと不自由なことが出てくる。さりとてあまり便利に、ぬけ目なく作り過ぎても、人間が建築に左右されることになり、生まれつきだらしのない私は、そういう窮屈な生活が嫌いなのである。俗にいわれるように、田の字に作ってある農家は、その点都合がいい。いくらでも自由がきくし、いじくり廻せる。ひと口にいえば、自然の野山のように、無駄が多いのである。   ー白洲正子『縁あって』より

最後に。

旧白洲邸を訪ねる際、駐車場を案内してくださったおじさんがいたのですが、その方が驚く程丁寧な口調で、品があり、とても素敵だなーと思いながら白洲邸の見学に向かいました。
帰る際も同じ場所に立っていらっしゃったので会釈をしたところ、「いかがでしたか?」と声を掛けられ、

「最近は若い方に来館して頂けるのがとても嬉しく思います。これからの未来を担うみなさんに受け継いでいただければ幸いです。」

というような言葉を託されました。
その時は、あまり深く追求せずに、「ありがとうございました。」とお礼を伝え、帰ってきたのですが、その後上の言葉に込められた意味を考え、色々と思いを巡らせてしまいました。

再来の機会があれば、そのことについてもう少し踏み込んでおじさんとお話してみたいです。

 中條  美咲