世間のお休みに合わせ、私ももれなくお休みを頂き、実家に帰省します。
荷造りをしつつ、たまっていたシャツにアイロンをかけながら、とりとめのないことを少しばかり思い起こしてみたりします。
”灯台下暗し”という諺がありますが、これはまさにそうだなあ。という出来事をひとつ。
母親のはなしです。
わたしの生まれ故郷である長野には、様々な観光スポットがあります。中でも自然好きにはたまらない上高地。今では本当に訪れる人が多く、きっとこのGWも多くの人で賑わうのでしょう。
母親の生まれは上高地の麓、ほとんど目と鼻の先という距離です。しかしながら、母は生まれて一度もその場所に訪れたことはなく、半世紀の時を経て…去年ようやくその場所・上高地を訪ねることができました。
ようやくといっても本人がずっと、行きたいと思っていた訳ではなかったように思います。
ただ、いつでも行ける。と思っていたことは間違いないだろうなーと。
そして、これってきっとどこにでもあり得る話かもしれないなと。
母に限らず多くの人は、生まれたときからそこにある風景や環境を取り立てて”特別なもの”などと意識することは少ないのでしょう。
その存在は毎日そこにあり、在ることは当たり前なので、たまに山に意識を向けて「今日はきれいだな」とか「雪が積もったな」などと思う瞬間があったとしても、それは一瞬です。すぐにまた日常の諸々の方に、気は向いてしまいます。
そんな風にして、意識するともなく存在をたまに感じながら、わたしたちは年を重ねていきます。
(せっかく近いのにもったいないとか、地元なのに案外知らないことが多いことを気付かされ、これではいかん!などと思ったりすることもあるのでしょうが…)
でもそれでいいんだろうな。それっていいな。と思いました。
うまく言えませんが・・・
わざわざその場所に行って、みんながみんな自分の目で確かめなくても、そこに”在る”ということがわかって(感じて)いればそれでいいんだなって。
目には見えない安心感に包まれている感じってこういうことかもしれません。
最後に。
数年前に屋久島を訪ねた際、現地の方がおっしゃっていた話を思い出しました。
屋久島が世界遺産に登録されてから、随分と観光客が増え、屋久杉目的に山に入る人が増えたけれど、元々ここで生まれ育った人間は山には近づかない。山に入るのは(決められた人間に限り)年に数回の祀り事のときだけでしたよ。と・・・
私たちはその時は縄文杉ではなく、もののけ姫やナウシカのイメージとなった白谷雲水峡を訪ねたのですが、周囲の人たちからは屋久島に行ったのに縄文杉に行かなかったことを驚かれたりもしました。
どれほどの秘境といわれる場所も、今の時代では秘境で在り続けることの方がよっぽど至難でしょう。
灯台下暗しの話とはまた違った意味合いではありますが…帰省の度になんだかいろんなことを思い返したり、思い出したりするものですね。
それでは行ってきます。
中條 美咲