懐かしさと喜びの自然学と、右の内耳。

” 人は一日一日をどう暮らせばよいか。
 こんなことは普通、放っておいても自ずからよろしきにかなうことで、問うまでもないのですが、いまは普通の時代ではありません。

 実際、この講義の最後に毎年、作文を書いてもらうのですが、それを読んでいますと、みなさん口々に「来る日も来る日も生き甲斐が感じられない」と嘆いているように聞こえます。みなさんにとって、一日一日をどう過ごせばよいかが、深刻な問題になってきている。 ”

時は1971年度。京都産業大学の教養科目として開講された岡潔による講義「日本民族」をもとに編者(森田真生さん)がまとめた『数学する人生』の一章「最終講義 懐かしさと喜びの自然学」は、このように始まる。

この一節に触れて「たしかに、そうかも」と私は思った。

何かをしなくちゃ。たくさん仕事をしたり、必要とされることを効率的に生産したり、多くの人と関わったり、更新されては次々流れていくタイムラインに目を通したり、先々のスケジュールを埋めなくちゃ……

自分の心で感じることに比べると、「世間」というのはずいぶん情報過多にできている。知らず知らずのうちにそれらは常態化して、時おり深刻にもなりながら一日一日と過ぎていく。

けれど、岡さんの語りに耳を傾けているとあれこれ情報を詰め込んだり、「何か」を過剰にする必要はないんだと、清々しい風が吹きぬけていく。

生きる意味や価値なんていうものの前に呆然と立ち尽くさなくても、ただ風が吹いている。雨の匂いがした。紫陽花の花が咲いてきれいだな、うれしい。そんな感じで「時」を感じていれば大丈夫なんだと肩の力がふわふわと抜けていく。

岡さんは講義のなかで、ひとの心というのは二つの要素から成りたち、一つは懐かしさ、もう一つは喜びで、この二つを同時に感じるのだと指摘したうえでこのように続けている。

喜びとは何かを知的にわかっているわけでもない。ただ何となく幸福なのです。余計なことをいわなくても、赤ん坊は情で「生きていることの喜び」をわかっているのです。幸福とはこういうものです。


幸福や喜びは「情」のなかに包摂されていて、時おり形として現れたりもする。それは赤ん坊がニコリと笑った表情なのか、花が咲いて蝶が舞っている姿なのか、その時々の固有の事象。

さらに講義の終盤、「不生不滅」で語られる内容に引きこまれた。途中途中省略をしながら、全体を引用してみたい。

不生不滅

 ものには生の一面と、死の一面とがあります。いつか必ず死ぬというのが死。他方、生まれたり滅したりしない、不生不滅というのが生です。この「生」を知りたければ、右の内耳に関心を集めることです。

 その反対が「見る」ということです。見ると必ず意識を通しますが、そのわかり方でわかるのは死だけです。

 とにかく、余計なことをする前に、右の内耳に関心を集めて、聞こゆるを聞き、見ゆるを聞くこと。これをやりなさい。

 「関心を集める」とはそういうことです。はじめは非常に重量的な精神集中をやる。そうすると、やがて深い精神統一へ入る。

 だんだん上手になっていきますから、右の内耳に関心を集めて、自然の調べを聞いてみたらよろしい。蛙の鳴き声でも調べはあります。風のそよぎ、小川のせせらぎ、みなこうして聞いたらよい。そのうちに関心が集まってきます。目を閉じたり、開いたり。見るということをしないように。見るというのをやったら意識を通しますし、ただちに死へと逆戻りです。

 内耳ですよ。内耳へ集めて、調べを聞く。そうすると、来る日も来る日も、生き甲斐が感じられるどころではない。日々新たにして、趣の違った生き甲斐が感じられるでしょう。


見るのではなく、右の内耳に関心を集める。

この修行を通して、観音菩薩さんは不生不滅を悟ったというのだから、やってみようじゃないか!なんて。

コロッと話題は変わって、この前久しぶりにお会いした芸術人類学者のIさんと産婆や出産の話で盛り上がったのだけど、胎児はお腹のなかでずっと夢を見続けているのだという話を聞いた。

それは、水中生物だったときからの長く遠い古代の記憶を追体験するように。誕生当初に水かきやしっぽがあるのは、生命進化の過程そのものなのかぁと、しげしげしながらお腹に手をあてて耳を澄ます。

日に日に重たくなっていくお腹のなかで手足を活発に動かしクルクルまわりながら、この子はどんな夢をみてきただろう。

生まれてはいずれ年老いて、いつしか記憶を失くしていったりもする人間にとっての「生」と「記憶」。

そうした流れに身を委ねながら、今日という日をたしかに生きよう。

『数学する人生』岡 潔 著 / 森田 真生 編