「明るい地上には あなたの姿が見える on this bright Earth I see you」と題された現代美術家・内藤礼さんの展覧会について、ふり返ってみたいと思う。
茨城県の水戸芸術現代美術ギャラリーで10月8日まで開かれていた。
いつか体感してみたいと、以前から関心を寄せていた作家さんでもあったので、私は長年の夢(?)が叶ったような浮き足立つ気持ちで会場を訪ねた。
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余談ではあるけれど、それは3年前の6月のこと。半分、ひとり旅で瀬戸内の小豆島から豊島へ渡った。彼女が手がける《母型》(豊島美術館)へ行きたかった筈なのに、開館時間に間に合わず、訪ねることができなかった。代わりにレンタサイクルを借りて島内をやみくもに散策し、海沿いの古びた民家に一泊。海が荒れていた翌朝、小型船が欠航するかもしないかもという状況のなか、美術館の開館を待たずして私は泣く泣く本土へ戻る経験をした。
それはまったく、自分自身の計画不足が招いた失態だった一方で、その出来事をきっかけにして、私はますます、内藤さんの作品へ憧れを深めるきっかけにもなったように思う。
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内藤さんの作品群は、ひとつひとつの単体というよりも、全体としてひとつ。彼女が図り図らずも出現してくる世界のなかに入り込んでしまったような、不思議な感覚に包まれるものだった。
天から地上へとたらされるかすかに透明な糸、(わたしに息を吹きかけてください)とこちらに呼びかける真っ白な水面、《ひと》と題され、生命を与えられたかのように佇む小さき人びと。
「現代美術ギャラリー」として、作品を展示するための空間のはずなのに、そこにはたしかに世界が立ち現れていた。これまで知りえなかった世界に、時間や空間を越えて迷いこんでしまったような。絶望も孤独も過ぎ去ったあとの、世界のおわり。遠く離れてふり返るとき、かがみに差し込む光は、新たなせかいへ通じる兆し。
そして、私たちは一枚の「恩寵」を受けとり、光のもとにかざすのだ。
テーマは「地上に存在することは、それ自体、祝福であるのか」。
” ーー本展では、光を自身の作品における根源のひとつとしてきた内藤が、はじめて自然光のみによる、光と生命と芸術がけっして分別されえない「地上の生の光景」を見つめる空間を生み出します。
内藤はあるとき、「地上の生の内にいる者(私)が、生の外に出て、他者の眼差しを持ち、生の内を眼差す無意識の働き」に気づき、「私たちは遠くから眼差され、慈悲を受けとっているのではないか」と感じるようになったといいます。 “
パンフレットにはこのような文章が記されていた。内藤さんのことばはそれ自体が暗示的でどこまでも通じていくような空気をまとう。2009年に発行された『神戸芸術工科大学レクチャーブックス……4.〈母型〉』の一節も引いてみたい。
” 場所との出会い、地上にいること
ーーある空間の中に入って、入った瞬間に自分は「わかった」と思って見ているということは、いかに「ちがう」と私が思っているか。ひとがわかるものはわずかなものだし、ふつう「知りたい」ということはあるかもしれないです。でもそれ以上に私は不明なものというか、わからないもの、自分が地上にいるということを知りたいというのがとてもあって。作品の体験のなかでも、自分が見たものはなにか一部なんじゃないか、気がついてないなにかが起きているんじゃないか、私は前を向いているけど後ろでは何かが起きているんじゃないか、光が変化したのではないか、音が聞こえたような気がする、ものが見えたような気がする……。そういうことがだんだん作品をつくるうえで大事になって。 ”
そして私は勝手なことに・・・この間、仲間たちと読み進めている『存在と時間』の一節(第69節 c 世界の超越をめぐる時間的問題)は、なんだか内藤さんの世界観・作品やテーマに共鳴する要素があるような気がするのでした。
” 世界は《主観的》である。しかし《主観的》な世界は時間的=超越的なものとして、あらゆる《客観》よりも《客観的》に存在するのである ”
” 世界を可能とする実存論的=時間的条件は、時間性が脱自的統一として地平といったものをそなえていることである “
勝手な結びつけでしかないのだけれど、私たちは内部にあって且つ、地平(地上)に立つ固有の存在であるということ。それはとても深いところで、彼女が問いかける「祝福」へ通じていくのかな、通じていればいいなぁと。
ふり返って目にした、あのときの空間にひろがる一筋の光のことを思うのです。