「工芸」という選択

先日、「工芸」に変わる適切な言葉がないかという話題がもちあがった。

どうやら一般的に「工芸」という一語は、手仕事の民芸品だったり、木彫品だったりと、「伝統的」という言葉に引きずられながら、由緒正しき手の仕事として受け止められることが多い様子だった。

現代では一般化している、機械の製造工程を含めた「ものづくり」は、果たして「工芸」の括りからは弾かれてしまうのだろうか。

立ち返って、私も考えてみた。

ちなみに、英語の辞書で”craft”という言葉には、「技能」や「技巧」「技術」や「わざ;手工業」。あるいは「職業」「仕事」という意味が含まれる。

「工芸」という言葉が日本で使われるようになったのは、明治のはじめ頃(1868-1912)。当時、「工芸」と「工業」の語は、ほぼ同義語として使われていたらしい。機械技術が未発達な時代においては、機械で大量に生産する状況はまだまだ想定になかったからだそう。

参照:美術と工芸の距離と遠近──現代美術と金属工芸作家ユ・リジの作品について──

ある時期、「工芸」は「美術」へと吸い寄せられて「美術工芸」という言葉で語られる場面が多くなる。そして、しばらくすると「美術」としての「工芸」は、技術的なことから精神的なものへと目指される足場を移していった。

工芸が持つ「技術」や「技能」が、「美術」の根幹に迫りすぎてしまったからだろうか。本来、そこからは離れところ、精神的に高められ深まりを極めたところで発露していくハズの美術が、技巧に引っ張られすぎてしまうことはいまに始まったことではないだろう。だから、近づきすぎないように、遠ざけたい気持ちも、なんとなくわかる。

そうして産業革命の隆盛とともに、機械生産がものづくりの主流になるにつれ、「デザイン」という概念が生まれることになる。デザインとは、機能性を追求した姿。

参照した論文の中には、日本では西欧美術の価値観や体系に従って理念構築がされたと記されていた。

良いか悪いか、正しいか間違っているかは別にして、日本は基本的に西洋美術の価値観や価値体系に従って理念構築がおこなわれた。具体的には,絵画、彫刻を上位として、建築、工芸、デザインを下位に位置づけたーー。

さて、ながらく日本において現代美術作品を見て「デザイン的で工芸的」という評価は、純粋性が欠如し不純だという意味として捉えられ、純粋美術として成立していないとみなされてきた。”

純粋性が欠如し、不純だという意味として隅っこの方に追いやられてきた「工芸とデザイン」。
21世紀における両者の立ち位置はどうだろう。なんとなく、反転して感じられるのは、私だけだろうか。

「工芸」という言葉のポテンシャル。

もう一つ気になった論文があったので、こちらについても触れてみたい。

参照:工芸教育に関する一 考察一工芸概念の多様性に対する共通性の探求の視点から一

ここで筆者の佐藤さんは、「工芸」という言葉について、このように前置きしている。

明治に生まれた 「工芸」という言葉は,様々な解釈を経て, 未だはっきりとした概念の定着には至っていないと思われる。 工芸の核となる民芸や伝統工芸,或いは前衛工芸と言われた近代の造形作品的工芸等の様々な工芸は,ともに「工芸」であっても,互いに異なる「工芸」概念を持っているように見える。このような状況の中では,概念誕生時の混乱や様々な主張の是非を問うのではなくして,現実に多次元的に展開している諸工芸を結びつける要素を見つけていかなくてはならないだろう。”

筆者は、手がかりの第一歩として「素材」に立ち返り、「工芸」の共通項を探っていく。

「 工芸素材 」という共通項

ごく単純に考えれば,民芸であっても伝統工芸であっても同様であり,工芸は工芸素材によってつくられたものということが前提とも言える。

目的である「使う」ことと,形である「工芸」とは,素材という実体を間にして同義であり,「形式と目的との間にはなんら意識的な区分はない」 ということが言えるの ではないだろうか。

「素材と行為」という概念

『ヨーロッパ 工芸新世紀展』図録の巻頭論文「木を愛する心」で,前出の樋田氏が指摘した素材観を一例として示しておく。

「日本に受け継がれてきた素材認識と較べると,ヨーロッパ で誕生した近代デザインが抱いたそれは,対蹠点にあったかのように見えることだろう。 なによりも近代デザインは,素材に何らかの主体性をもった生命が内在しているとは考えなかった 〜素材の価値は人格化された素材の個性によってではなく,人間がその素材から引き出すことの出来る物理的特性によって判断された。 例えば竹が素材に選ばれるとき, 竹の清楚な質感よりも,その弾力性の方に関心がはらわれたのである 。」

上記引用を例に言えば,「弾力性」が目的ならば,同様の弾力を持つプラスチックで構わないのであり,例えば竹の笊とプラスチックの笊は,科学技術の素材革新の前後に位置する「同じもの」になる。しかしプラスチックの笊は今のところ「工芸」ではない。私たちはプラスチックの笊を「工芸」としないかわりに,竹素材を編み上げた造形作品を現代の「工芸」として選択した。

かつて、柳さんたちは「民藝」を選択だと言ったけど、現代においては「工芸」もまた、選択なんだと気がつかされた。

近代デザインという視点では、素材というよりも機能重視。素材がプラスチックであっても、竹と同様の弾力性が生み出せるのであれば、その部分はどんどん変換可能に置き換えられていく。だけれど「工芸」であるためには、どこまでも素材に根ざし、素材を拠り所とする必要がある。素材という「制約」によって、自然界から独自に生まれたものを頂戴して、私たちの暮らしで使用するための道具を作り出す。機能以前に、素材ありき。

時代の変化とともに、製造工程の大部分が手仕事から機械生産に変わったからといって、それらが全く「工芸」ではないと、はっきりくっきり退けられる話でもないような気がする。

あと、もう一つ。

だいじな視点は、素材に根ざして寄り添うこと。「工芸的」であることによって自然や環境に対しての負荷をだんだん小さくしていくことだってできると自覚をすること。なぜなら小さい負荷で循環していた縄文時代は1万年も続いてきた。(ちなみに日本は産業化されて130年程度。1万年先も、変わらずに産業化社会が続いているとは到底思えない。)

工芸を経済価値に変換したことで、奥会津の山葡萄の乱獲みたいな実情も同時発生的にはあるのだろうけれど、「工芸」を足場として素材に根ざしたいとなみは、循環型の暮らしへと扉をひらく。


青森県三内丸山遺跡

 


併設されるミュージアムにぽつんと佇む「縄文ポシェット」

 

言葉そのものを変換する必要はあんまりなくて。

それよりも「工芸という選択」の、「選択」部分の可能性をもう少し掘り下げてみたい。産業化工業化し尽くされたいま、私たちは「工芸」という言葉のポテンシャル(包容力)をもう一度見つめなおしてもよい時期にさしかかっているんじゃないかな、と。

長らく「工芸と工業の次」という鼎談に向き合うなかで、輪島で塗師をされている赤木明登さんの言葉からもそんなことを感じる今日この頃。

「工芸と工業の次」5/6 土地とのつながりを求めて

テーマを含め、まだまだ掘り下げていくことのできそうなディスカッションでした。もしもご興味あれば、第1話から読み進めてみて下さい。

「工芸と工業の次」1/6 産地とは、「物」が生まれて育まれる場所