ツイッターを覗かなかったら、
気がつかないまま何事もなくすぎていったであろう一日のおわりに、
ひとつの死に触れた。
正確にいうと、触れたのではなく「目にした」ことになる。
糸井さんの愛犬、ブイヨン先生が亡くなったのだそう。
そこまでの「ほぼ日」愛好家でも、大の愛犬家でもないわたしが、どうしてこんな風に立ち止まってPCに向かっているのか、不思議な気もする一方で、ふと思ったことがある。
*
インターネットを「波」と捉えたのがどんなひとだったか、わたしは知らない。
気がつくとこうしてどっぷりと、寄せてはかえす波の時代を生き始めてどのくらいの時間が経ったのだろうかと考えてみると、きっと30年にも満たない程度。
けれどこの30年は、わたしたちの出会いと別れ、つながりの構造をすっかり根底から大きな波でさらってどこまでもとどまることなく混ぜ合わせた。
知る由もないひとの日常を垣間みて、彼らの言葉に触れていくうちに、
見ず知らずのあのひとはいつしか日常の、よく知る「 〜さん」になっていった。
実際に会ったことがなくても、彼や彼女の活動の一片をいつでも共有できるから、
気がつくと身近で親しみのある存在として、いつでもそこに行けば会えるひとになっていた。
見つめるだけ、眺めるだけにもとどまらず、
ひと言アクションを起こせばあっという間につながって、新たな活動が芽吹きだす。
予測も計算もそっちのけに、波のなかはいつでも混沌としていてとめどもない。
30年前だって、テレビから有名な「あのひと」の出会いや別れは流れてきたんだろう。
でもそれは、この波のなかで感じるリアルとはまたちょっと違ったものなんじゃないか。
バーチャルとリアルを対立軸で捉えることが多かったりもしたけれど、糸井さんのツイッターに寄せられるたくさんのコメントを見ていると、この波のなかのリアルさをすごくリアルに感じたんだ。
そうして波にゆらめていると、ほぼ日の永田さんが糸井さんの著書『思えば、孤独は美しい。』の一節を引用しているツイートが目にとまって、離れなくなった。
「いっしょに、いたっけなぁ」と、思うこと。
「いっしょに、いたっけなぁ」と、泣きじゃくること。
そういうやつがいただけで、わたしたちはしあわせだ。
別れることは、いっしょにいたということ。── 糸井重里『思えば、孤独は美しい。』より https://t.co/eIDHPBGgZQ
— 永田泰大(ほぼ日) (@1101_nagata) March 21, 2018
「いっしょに、いたっけなぁ」と、思うこと。
あのとき、あのとき、あのとき、あのとき、
「いっしょに、いたっけなぁ」と思う。
好きな人のことを、そんな風に思う。もしかしたら、いっしょにいたのに、
「え、いたっけ?」なんて
忘れていたかもしれない。
それはそれでね、そういうのもいいんじゃない。ともだちどうしでも、仕事なかまでも、
兄弟姉妹でも、親と子でも、恋人どうしでも、
そして夫婦でもね、いっしょにいたことが
うれしく思い出されることって、
ほんとうにいいものだ。いっしょに、たくさん旅をした。
いっしょに、おなじ時間を過ごし、
いっしょに、あれやこれを食べ、
いっしょに、寝たりもした。
こんなやついなけりゃいいのにとか、
いっしょの部屋の空気を吸いながら
思うことも、ないわけじゃなかったりね。「いっしょに、いたっけなぁ」と、思うこと。
その思いのなかに、その人がいる。
めいわくもかけたかもしれない、とか思う。
もっと親切にできたような気もする。
もっとわがままを言いあっても、
よかったかな。男でも、女でも、犬でも猫でも、
たくさんいっしょにいたことを思い出すのは、
ほんとにたくさんいっしょにいたからだ。言っちゃわるいけど、みっともない顔も見てた
ろくでもない性格だって、知っている。
だけど、それでもいっしょにいたということが、
それが、なんだか、すべてかもしれないと思う。「いっしょに、いたっけなぁ」と、思うこと。
「いっしょに、いたっけなぁ」と、
泣きじゃくること。
そういうやつがいただけで、
わたしたちはしあわせだ。
別れることは、いっしょにいたということ。
そう思ってね。──『思えば、孤独は美しい。』糸井重里
春はたくさんの出会いと別れがひしめいている。
「いっしょに、いたっけなぁ」。
そう思える場所が現実のせかいにも、せかいを包み込むインターネットの大海原にも、
ちゃんと存在していることが、なんだかものすごく大切に思えた出来事だった。
桜咲く春の日
ご冥福をお祈りします。