こんにちは2018年。
年末年始にかけて、2010年に刊行された月刊「目の眼」別冊『サヨナラ、民芸。こんにちは、民藝。』を読みました。
この2,3年、とても身近なところで「民藝」をキーワードにした動きには触れつつも、書籍などを通して語られる「民藝」に触れることをすっかり先延ばししてきたこの間でもありました。
真正面から行くには周回遅れもすぎるだろうし、かれこれたくさんのーーつくり手さんを含めた実践者の方たちが語っているフィールドだから。都市を離れ、自らの手で暮らしをつくっているのでもない自分が果たしてどんな風にコミットできるのか、していいものなのか、躊躇いがあったというのも理由の一つだと思います。
刊行当時にここまで語られている「民藝」が、7年近く経過してもなお「民藝」として語られていることが新鮮に不思議でもありました。(なぜなら私たちは、どこまでも飽きやすくて移ろいやすい性分を抱えていたりもして。)そこまでいったらもう「民藝」でなくても良さそうなところに、いまではその可能性の種子が育ち始めたりもしていて、ひとつの言葉が与えるインパクトの大きさを感じずにはいられないというのも半分の気持ち。
ひとつの言葉を生みだす・言い当てることによって、以後数百年、数千年とその言葉がもつ力や効用は持続し続けてしまうんだなぁと感じずにはいられません。
本書は6つの対談で構成されています。中でも私が気になったのは、志村さんが実感として語るふたつのお話。
対談3 ◎用と美の間で作家は何を思うのか?
志村ふくみ(染織作家)× 近藤高弘(陶・造形作家)志村:ーーもう民藝なんてはっきり言ってどこにもないんですよ。申し訳ないけど、どこ探してもないんです。今おっしゃるようなところ(筆者補足:農業や自らつくる暮らし)から芽生えてくるのが、民藝という気がします。まったく今、みなさん試行錯誤してやっていても何も見つかってないという感じがするんですよ。若い人たちでも、社会でいろいろ傷ついて、傷んでる人が私のところに来たりするんですけど、みんな何を目的にして生きていけばいいのかわからないんですよ。何か実際につくってみて、自分の証みたいなものができればほんとうにすばらしいと、私もそう思います。小さい場所でもいいんですよね。
*
近藤:これから志村先生がどういう活動をされるかとても楽しみなんですが、どんなことを考えられてるんですか?
志村:鎌倉の近代美術館で内藤礼さんの展覧会があったそうですけど、あれどうお思いになられました?(以下、略)
近藤:かくれた気配を気づかせるようなものですよね。
志村:ーーいかにも意味ありげにコップがただ置いてあったりする。そこで、若い人が感動して涙流してるんですって。でも館長さんや学芸員のかたのお話を読んでわかったんです。私も娘もあっと気がついた。「何もなくていいよ」、「おいで」と書いてあるんですって。小さな紙に。それを若い人は持って帰るそうです。それが赤ん坊が生まれるときに地上に立ったときの大きさなんですってね。若い人がどうしてこんなに何回も何回も行くのか、涙を流すのか。今までみたいに権威的な展覧会にいってひれ伏すんじゃなくて、何にもできなくてもいいんだ、っていうメッセージがある。それだけ若い人の闇は深いんですね。それに気がつかなかった。ああ、そうなのかと思いましてね、偉そうに伝統だとか、紬だとか、植物染料だとかいってる場合じゃない。ガーンとやられた感じですよ。
大学出たって就職もないですしね。うちから出たって織物で食べていけるわけじゃないし。考えてみたら、前途真っ暗ですよ。そういうなかで「おいで」って言われるだけでもう涙が出るって。びっくりしましたよ。何て私たちは既成概念で頭がガチガチになっていたか。志村:ーー内藤さんのメッセージをよんで何かがひっくり返りました。立派な着物を見せるだけじゃなくて「糸である、繭である、植物である」、こういうところに視点をもっていかなければ、できあがったものを見せても、着られもしない高い着物、そんなもの見せて何になろうかというところに、内藤礼さんの展覧会で気づかされたんです。
以上は、今から8年も前に語られたお話の一部分。そのときに比べたら就職率は多少改善されているとして、未来が希望の光かというとそれはどこか絵空事のようでもあって。志村さんが語る若い人たちの無力感のようなものは、基本的には相変わらずに暗闇へと開かれ続けているのではないかと私は思ったりもしました。
「それだけ若い人たちの闇は深いんですね」という言葉。そのままに解釈すればネガティブな意味合いで話されているのかもしれません。けれど私はなぜか、この言葉をポジティブに受け取ってもいいのかもしれないと思ったのでした。
私たちを包み込む闇は、深い。
その闇は絶望でしかないかというと、そうではなくて・・・
社会がまぶしくやんややんやしている時代、いっとき目が向かなかっただけで、ほんとはみんな記憶しているし、受け入れてもいる。
深い闇から生まれて、深い闇へと消えていくこと
深い闇にうっすらとほの白く光りが差したらあわいができて、
生も死も包み込む闇の深さとあたたかさを、もう一度よくよく感じて確かめてみたいと感じた次第です。
「民藝」という言葉の懐の深さに慄きつつ、実はすでに、なんだかんだ次のステージなんだろうなぁとも思いつつ。2018年も、引き続きまなざして感じていけたら良いなぁと思っています。
(左)「目の眼」版と、(右)単行本版も刊行されているみたいです。