「感性と理性のあいだにあるものは何か?」先日、ある方からこんなお題をいただいた。
この間しらずしらず、すでに自分の前を歩く、圧倒的な迫力をもつ大人たちの言葉を受け取るばかりになっていた自分に気がついた。時間が経てば立つほど、わたしは投げられたたくさんのボールたちに埋め尽くされるように、窒息しかけているではないか。拙い出来ばえでも即座に自分の言葉で考えて投げ返さなくちゃいけない。それが健全さの基本の”き”。
受信と発信。入力と出力。
物事は常に往還する動きのなかで生き生きと生かされる。
動きを止めてしまうのは、心にも体にも不健全なんだということにようやく気がついた。
わたしはもう一度、ボールを受け取った自分に向き合いたいと思う。拙い言葉を紡いでいこう。
少しかための文章だけど、彼の問いを受けとったわたしの応答を以下にそのまま引用します。
昭和村のまとめもそうだし、出発点のこの場所に記していきたいことは山ほど溜まってる。
読みながら、一緒に考える足場となれたらいいなぁと、思います。
不完全という完全
Q.「感性と理性の間にあるもの」とは
→ A. 人間的ないとなみ、人間的なふるまい
「何をもって人間的といえるのか?」
長い間、理性(ロゴス)と感性(バトス)というふたつの特性を追求し、育て、培ってきたのが人間の歴史と仮定してみたい。自分自身の感性に自覚的になり、理性的に物事を見極めていく働きの積み重ねによって人間の直感や情動は言葉で伝わるかたち、目で見て確かめられる姿へと変換を重ね、高められてきた。それを高めようと、伝えようとする働きをひとまず「理性的ないとなみ」と呼んでみる。理性と感性を併せ持った「人間的ないとなみ」の要は、自分以外の”他者”という存在が「そこにいること」の気づきだったかもしれない。
他者という存在がそこにいることを理解した「わたし」や「ぼく」は、同時に自分自身という存在が「ここにいる」ことを自覚しただろう。それまでは生きるために食べ、種を残し、果てしない連鎖のなかで循環を繰り返すばかりだった動物たちはある日、連鎖の流れからはみ出し始めた。本来であれば循環を繰り返すことが「完全」だったとも言えそうだけれど、両方を併せ持った人間的ないとなみは、自然と一体となった「完全」の世界から抜け出した。抜け出したことによって、自然界から半分切り離されたと同時に、対象化した自然界を利用することによってますます人間は理性的な動物として、その本領を発揮しはじめた。そうして独自の世界を築きはじめた人間存在は、完全を目指し続けて今日に至るのかもしれない。完全を目指せば目指すほど、「不完全」な存在である自分たちを目の当たりにして、「不完全」の克服は「完全」を目指す人間の新たな課題となっていった。
理性の側面の強化に勤しみ、理性的ないとなみが日常化した「変換活動」によって成り立っている現代において、「感性」の働きは次第に疎まれるようにもなっていった。本来は感性と理性、その両方をもち、その間にあることで「人間的ないとなみ」は成り立っていたにも関わらず、「感性」は芸術や表現、創造活動など一部の環境において求められはするけど、社会の一員として足並みをそろえて活動していく上では、感性以上に理性的であることが喜ばれる側面が多かったかもしれない。
感性と理性の両方を持ち、両者のバランスがとれたところで「人間らしさ」や「人間的ないとなみ」は発露される。どちらか一方に偏ってしまっては歪みは強まるばかりだろう。近年、ポツポツとではあるけれど確実に「感性」に重きをおいたいとなみや活動を求める声が高まっているのは、「理性的ないとなみ」を追求しているだけでは「完全」から離れていくばかりということに気づきはじめた人たちが少なくないからではないだろうか。そして、ひとりひとりの人間がそれぞれに両者のバランスを取れることは理想的にも思えるけれど、現実はそうではない。極めて感性よりの人、理性よりの人、グラデーションは様々だろう。陰陽、濃淡の広がりが大きく、深ければ深いほど、少し離れて眺めたとき、一体となった景色は美しい。感性も理性も押し殺すことなくのびのびと活かして活動していくことができたら、私たちはきわめて「人間らしく」、あえて「完全」の世界から抜け出したことで発見した「喜び」とともに、この世界では一回きりと決められているいのちを全うしていくことができるのではないか。
しょうぶ学園の取り組みは、虚弱化してしまった「感性を存分に発揮していいんだよ」という時代の先駆け的な取り組みでもあるように感じられた。その先導となる入居者さんたちは、これまでは「不完全」な存在として社会からは遠ざけられてきたかもしれないけれど、むしろこれからは、彼らが持っている「不完全という完全」から私たちが多くを学び、互いに補い合って、少しずつ歪んでしまったバランスを手をとり合って整えていくことに時間を注いでいくことができたら良いなと思う。
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そう、この問いを発してくださったのは、鹿児島県の社会福祉施設「しょうぶ学園」の施設長、福森伸さん。福森さんが、講義のなかで語られた印象的な言葉をいくつか。
”世の中が便利になればなるほど、障害の人はどんどん増えていく。追いつけないから”
”ぼくらの自由は常に周りとの情報共有の上に成り立っている。「自由」という点からみれば、ぼくらの方が不自由。彼らの可能性はぼくらの裏側にあるんです”
”答えはない。自分なりの正解はある。感情は理性より頼りになる。だから自分の感情に対して、自分でもうちょっと考えてみることが大事”
”ぼくは、グラデーションの間に立ちたい。時間のうえを歩いてね”
これまでの普通と、これからの普通。
「普通」ってなんだろう?ほんとうの「障害」ってなんだろう?と足を止めて立ち止まったとき、ヒントは自分の感情の奥のほうに
ぽつねん、
と立ちすくんでいるんじゃないか。耳をそばだてて、ゆっくり、深呼吸をして・・・
今月末まで、しょうぶ学園では、子どもたちを対象にした新たな場所をつくりだすプロジェクトを進行中みたいです。