単純なしかたの、かたちの、方法としての道すじ。

ことばにしなきゃ欲求がふつふつ湧き上がっていた以前に比べて、

現状は休火山のように、そうした衝動はシーンと静まり返っている。

時折揺れ動く感情は、風に吹かれれば飛ばされてしまうし、

雨が降り続けばしとしとと沈みゆく。

そもそも、たくさんのことばはもうすでにいずれも、見渡す限りに溢れかえっているだけでなく、

気がつくと波にさらわれて大きな海の一部に溶け込む。

 

心地よいだろうか、

ひとつになって、

不安だろうか、

輪郭を見失い……

 

背負いこんだ荷物は、すきで集めたものばかり。

時間の使い方だって、囚われを外せば生き生きと弾み出す。

窮屈に退屈をして小言をする間におばあちゃんにはなりたくないし、

だれかのためを装った言い訳は、だれが見たってお見通し。

 

「ゆく川の流れは絶えずしてしかももとの水にあらず」。

もう十分に、だいじななにかは、いずれのだれかが残しているし、

鮮明で、近ずいて、つい触りたくなることばもあれば、

苔むした森の奥、ひんやり硬く年月を超えた、石のようなことばも佇む。

 

どちらにしてもことばは表面。

それらを通して、はじまる交流。

 

 

意味性も無意味性も総体化してみたい。

にんげんが作り上げたあれこれじゃなく、神さまが与えてくれたものは、手ばなしちゃいけないよって、喫茶店のマスターの受売りだけど、お気に入り。