神々とにんげんをつなぐ花

”たとえ明日世界が滅びようと私は今日林檎の木を植える”

ーマルティン・ルター

2013年の9月に出版された、藤原新也さんの『たとえ明日世界が滅びようとも』という本の中で、その言葉を知った。この本が出版された当時、福島第一原発からわずか20キロ圏内の福島県沿岸部の町へと移り住み、汚染された土壌に咲く花を生け続けたひとりの花人がいた。

神々と動植物、にんげんと。
それぞれの関係性や、あわいをつなぐ存在について。

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 人間の「神」という想念の生まれる契機は、遊牧民族においても農耕民族においても「恵み」という自然現象を切り離せない。
その私たちが、”生かされ続けてきた”長い恵みの歴史の中で、そこに神がいる、という想念は当たり前のこととして人間生活の中に定着した。

 だがこのたび、神は人を殺した。……

ー藤原新也著『たとえ明日世界が滅びようとも』より引用

同じ響きの名をもつ彼女はこういった。
「あれからどんどん転げ落ちている感じがします。都会にいたら止まらずに、転がり続けてしまいそう。希望はあんまりみえないですね。」

「2,3年後、都会にいる想像はつきにくい。」そんなことも口にしていた。

彼女は「実」、わたしは「美」という一字とともに生きている。

同じ響きでありながら、「実」と「美」のちがいはなんだろう。
ひとりの詩人が立ち去ったあと、「花」とはなにか、めぐらせていた。

神々のせかいに憧れていた。
おおらかで悠久で永遠で普遍のそのせかい。

それに比べ、人びとはやるせない。
与えられるものを、与えられるままに享受して吸いつくし、もっともっと欲しいとせがむ。
もらい続け、踏み込み続け、壊し続けてなお、恵みをあたえてくれる。それが神々であり、自然であった。

信仰としての神の存在も、産業科学の発展とともに、どんどん立ち位置が揺らぎ始める。
自然と神は切り離され、自然はにんげんの手でいくらでも改造可能の土壌となった。

そして、神々は立ち去った。

震災以降、相変わらず日本の神無月は続いている。
5年経ってようやくそのことに気がついた。

遅いかもしれない。
でも気がついた。

彼らが立ち去ったあと、現れたひとりの花人についての話だった。
花人は死んでいった多くの人々や、動植物の声を皮膚感覚で感じ取る。

「考える」でなく、「感じ取る」。

数十年ぶりに群生した、ミズアオイがきっかけだった。
津波に流され、人びとが立ち去り、かつての湿地状態に戻ったことで、息を吹き返し、姿を現したそうだ。

「ミズアオイは流された後の、死者の上に咲いている。」
この花の皮肉さは、にんげんに対する問いかけそのものだった。

そして花人は「途切れた時間をつなげたい」と、5000年前の縄文人がつくった土器に、ミズアオイの花を生けた。

詩人もまた自然のこえをきく。
大地のこえ、星のこえ、動植物のかすかな変化をダイレクトに受け取り、ことばを刻む。

「植物は土地のことばだ」

どんな種も、一時滞在者でしかない。
長い長い宇宙の原理でみていくと、生物種はすべて絶滅する存在。
我々の社会は、根本的なことを考えない限りロクなことにはならない。
いま、必要なのは目に見えるかたちのワイルドな場所。
手を加えず、自然に返すという選択があってもいい。

けれど、そうした詩人のことばは、現実に傷を負った人々のこころを傷つけもした。

花人はいった「あなたは無情だ」

詩人はいった「詩人に歴史はないんです」

歴史や記憶は、にんげんの感情の累積。詩人はそれを飛び越える。

すごく小さい我々のこえを、目に見えるかたちにするだけで意味がある。
僕のこえもほんとうに小さい。見えないと、忘れてしまう。それがにんげん。

詩人もまた、ひとりのにんげんだった。

 

花人はいった。「土は生きているのに、汚れている」
ずっと考えていたのは、花を摘み取って、生ける時、さいごは人のために生けていたこと。

その場所に、居合わせた哲学者はこう言った。

「詩人と花人は生身の自然のこえをダイレクトに伝えてくれる。にんげんは自然のこえを聞きにくい。自然の反応は素早く、震災後、ミズアオイとなってすぐに変化が現れた。でも、にんげんはめんどくさい。リアクションも遅いんです。5年間悶々とした。5年必要だった。にんげんが動きだすのは、むしろこれからじゃないですか?」

どこまでも情のせかい。対するのはにんげん。
愚かで弱くて、どうしようもないにんげんのことを考えつづける。
それが哲学者のしごと。

花人はいった「希望があるのは、ここかもしれない。」

詩人と、花人と、哲学者。

役割がまるで違う3人がそれぞれの立場から震災、原発事故、それから5年について。
ことばを交わした会だった。

「くだものは花びらの一部。どんなに美味しかろうが植物自身に関係はない。果実はあきらかに、僕たち動物への贈り物。花はもしかすると、動物の行動をずっと長い目で見越していたのかもしれません。」詩人は花となり、呟いた。

実をつけ、美しく装い、動物に豊かなギフトを与え続ける花の存在は、同時に、にんげんが自然のなかでどの場所に立ち、自然や神々と関わりを持つべきか、そうした問いかけをし続けてくれる存在だということを自覚した。目が醒めるような機会となりました。

「実」り咲くの名を持つ彼女も、

「美」しく咲くという名を持つわたしも、まだまだ花の存在について考えることはいっぱい。
ここにある問いかけと、自然との関わり方を模索して生きるのだと思います。

名前は宿命。

5年経ちました。そう、5年。
にんげんはこれからです。

そう、ここから….

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美咲