”ままならない「わたし」”を見つめて。

「書くこと」から遠のいてしまって、すっかり習慣から離脱している。

”書く”ことだけでなく、その時折に感じたり考えて”いる”ことをことばにしていく作業すら、もどかしさが漂う年初めでもあります。

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スッキリ!ではなく、もんわり、もわもわ。

そんななか、書家として活躍されている華雪さんが、(馴染みとなった潜りの授業において)とっておきのことばを届けてくれました。

華雪さんは、”いとおしさ”というキーワードからこんな風に語ります。

〈メモより〉

ひとつずつ確かめる。
書にはそのための視点がある。
幾重にも重なるわたし、
いくつも出てきたふつうの中のどれかを選択する「わたし」が大事。
そうした作業を通じて、初めて”いとおしさ”に触れることができる。

「日」という文字を、一ヶ月間毎日書いた。それは日常のなかで、(夜寝る前や明け方、様々な時間に)届く範囲の身近なペンや筆を手にとって書く。
それらと「わたし」との距離、大きさ、筆圧…
捨ててしまいたいものが出てくるけれど、それがその日。

しばらく続けていると必ず書き続けられなくなる。
その理由を考えてみる。様々に現れてくる「わたし」。
それらの”ままならない”「わたし」に、動揺している「わたし」がいる。

わたしはいるけど、同時に隠されてもいる。
だから確かめなければいけない。…

ぴりりと引っかかり、その後はじわじわ。
華雪さんの”ままならない”「わたし」という表現は、呪文のようにわたしの体内へと浸透していきます。

そうそう。いまのじぶんにぴったりなことばが見つかった。そんな気持ちになりました。

「 」付きの、”ままならない「わたし」”という存在。

 

お金も体力もない。けれど、”ままならない”「わたし」がここにいる。

まずはその事実をまっすぐに見つめること。

 

わたしが憧れる彼、彼女たちは、自分以外の誰かではなく、ただただ”ままならない”「わたし」と向き合い続け、会話を重ねる存在でもある。と同時に、もうひとりの”ままならない”「わたし」の居場所を守りつづける意志をもった存在でもある。

はたから見れば無意味であったり、大変そうに感じられたり、わざわざそんなことをしなくてもいいのになんで?…と思える事柄なのかもしれないけれど、それをせずにはいられない。

そうした人々の真剣でたくましくやさしい後ろ姿に、わたしは心を惹かれて止まないのです。

 

人間の本来持ち合わせている胆力って、その程度ではないでしょう?

便利に快適になることによって、考えること、自分が”ままならない”存在である、ということをすっかり忘れてしまうわけにはいかないと、あらためて感じる、風の強い冬晴れの朝。

 

 

ちなみに上の写真は昨年末に訪ねた兵庫県加古川の河川敷にて。