満月の夜は、なにやらそわそわと、どこかでもぞもぞと、なにかが蠢きあっているような、
ざわついた感じが漂いました。それもすでに過ぎたることの真昼のさなか。
風の勢いに応じて流れゆく雲は、自分がどこに向かってどこに流れ着くとも知らず、
少し早すぎるから速度を遅めようなどと、調整する隙もなく、
風そのものの勢いや流れに身を任せ、どこまでも過ぎていくし、流れに乗っては運ばれていく。
どこかに到着し喜びを噛み締めることもなければ、移動の最中にかたちはどんどん変わり続ける、かなしみもうれしみも、流れ流れ刻々と変化。
わたしが立つこの地点からは、どんどん「過ぎていく」ように見える事柄のひとつひとつも、
それはどこまでも「この地点」からの話でしかないということ、ただそれだけのこと。
性急に、いち早く、抜きん出て、「変わること」頭一つ分ぽこっと顔を出すことを重要視されるいま、変わらないこと、変わらずにあり続けること、変わろうとしないことへの価値や意味づけがどの程度の理解と共感、はたまた評価へとつながっていくんだろうかといういとおしみ。
「◯◯はまだ終わっていませんよ。」というカウンターとしてのプライドや、信念を守り抜く意志もそうだし、「オレたち変わんねぇなぁ。」と諦めでも開き直りでもない、受け入れ、受け止め、ありのまま、この地面に立っているという”イマココ”での実感事実もだいじだいじ。
変わること・進むこと・抜きん出ることへと向かう勢いが自然であれば、
そうした自然から距離を置き、佇み、堪え、踏ん張り抜くこともまた自然の一部、にんげんらしさのひとつの側面でもあるかもしれません。
人は、風景を介してのみ「自然」へと接することが可能になるようで、
そしてまた、そこにあると思っている「自然」は、にんげんが触れた途端に人の領域に含まれるものに変わってしまうだとか。
ー神奈川県近代美術館 葉山にて開催中の展覧会
『 飛葉と振動 』若林 奮 さんによる「自然」の認識
ともすると、にんげんが感知する「自然」と、そのようにアクセスされずに今なおどこかに残り続ける(と信じられている)「未開の自然」は、根底のところではときおり互いをちょいちょいと刺激し、確かめあってつながっているんでしょうか。
そんな感性のきらめきをくゆらせながら、自然的、にんげん的、変わらずにいとおしむことを考えたり感じたりする今日この頃です。