春に植えた、小さくてひょろひょろとしたみどり色のイネたちは、秋になり収穫の時を今か今かと待ちわびています。
見渡す限り黄金色にかがやくその圧倒的なまでの色づき加減に、どうしようもない喜びが湧き上がるばかり。
人々は大地や山や川、風や自然のかみさまに祈りと心からの感謝を捧げ、収穫のときに入る。
収穫は祝いであり祭りだった。
祭りは盛大に、みな声を揃えて喜びや感謝をウタにする。
いく年も続くそこにある営みに触れたとき、”季節が巡る”ということの喜びを忘れないように、両の手をぎゅっとつないで、手のひらのなかに閉じ込めた。
だいじにだいじに閉じ込めて、そーっとそっと、こころの奥にしまい込んだ。
長いあいだ忘れていた営みを、景色によって思い出すことがちらり、ちらり。
労しい「労働」のなかで、抗うことのできない現象を前に、皆は協力し、互いに助け合い、厳しさも喜びも分け合って、ウタを歌ってお祝いをした。
おおきな自然に包まれたなかで、一年で最も気持ちが高まる時だったろう。
今年も恵あるたくさんの実りを頂き、ほんとうに有難うございます。
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風に乗って遠くまで旅に出た。
旅をしていると目に映る光景は刻々と移り行く。
たいていそこにあるのは大きく広く、自分の手では変えることも止めることもできない景色ばかりで、深々とした自然のなかで、わたしは風の流れに身を任せている。
いつからかそこにあることが当然となっている「自然」という景色の価値は、これまでのあいだどんな風にして変化してきただろうと考えを巡らせた。
「価値」というのはほんとうに、お金や金額に換算しないと、「価値」にはならないのだろうか?とか、それ以外にどんなふうに「価値」のはかり方があるだろう?とか、そもそも「価値」は私たちの基準ではかることができてしまうんだろうか?とか…。
またしょうもないことを考え続け、ずんずんずんずん風に乗って運ばれた。
山形にある月山・湯殿山・羽黒山の総称、出羽三山。
今も昔も信仰の対象だった山という存在。
誰もが気軽に山を通過できる今と、こうした山道を自分の足で歩いて移動した旅人や修行の人たちと、この景色を前に、感じることはどう変わっただろう?
そこに見出されたそれぞれにとっての風景・景色の「価値」は、今とはまた違うものだったろうか。
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深く深く入り組んだ山中に、不思議にもぽっかりと開けた場所をみつけた。
人里からはすっかり遠く離れてしまい、今夜はここで一晩過ごすしかないと、ここより先に進むことを諦めて、わたしはその場所に降り立った。
どこかこの辺りで、眠りにつけそうな場所がないかなぁと、あたりをきょろきょろ見回しながら歩いていると、どこからともなく楽器の音色が聴こえてくる。
太陽は西の彼方に沈み、周囲は暗さを増していく。
わたしは恐る恐る、自分の存在を気づかれないように、音のする方へと近づいていくことにした。
さっきまで、空から見るとぽっかり空いていた広間のようなその場所に、今では楽器を携えた幾人もの山人の姿があった。
彼らはヒトであり、ケモノであった。
ことばを「言葉」として巧みに操ることを身につける前の、源のような存在だった。
月夜に照らされて音楽を奏でる彼の姿に、わたしはかつてそこで暮らしていた時間へと瞬間的につながった。
わたしたちはコドモのように、ケモノのように。うたいながら踊り、踊りながら音楽を奏で、
月あかりに照らされながら、大地の恵みとその「時」を、みなで共有し、分け合った。
ここは源で、ここからはじまった。
山形の山々と、黄金色の田んぼの景色。
高木正勝さんの音楽会「山咲み」が見せてくれた光景は、あまりに懐かしく、愛おしく、「生きていく」ことのなか、大事な記憶で満たされた。
中條 美咲