森はすでに黒く、空はまだ青い。

マルセル・プルーストの小説『失われた時を求めて』の中で放たれるこの言葉に込められた暗示を、わたしはこれから先の人生のなかで、少しずつ紐解いていかなければならないような気がしています。

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「森はすでに黒く、空はまだ青い。」

全8冊からなる岩波文庫版を、読み終えるにはなかなか時間がかかりそうです。

このブログを始めて1年半が経ち、その間自分なりに興味関心があることを深めようと、手探りに人に会いに行き、話を聞いたり、本を読んだり、あちこちに足を運んでは、そこでの空気を直に「感じる」ということを率先して続けてきました。

その甲斐もあり、本来得意であった(むしろそれが唯一の武器であり弱点。鼻に付くもの。)自分にとっての「感受性・感性」というものを鍛えることは、少なからず強化されてきたのではないかと思っています。けれど、裏を返してしまうと、今までの行動は、目的を絞り込みとことんそれについて深めるというよりは、自分が一体”何を”求めているのかをひたすら闇雲に、漠然と”在る”だろう”何か”を探すために、手当たり次第に手足を伸ばし、視界を広げ続けた時間でもあったのだと思うようになりました。

そして実際のところ、そこで自分が「広がり」と感じているものは、あまりにも不安定で、漠然としていて、頼りなく「そう思う」「きっとそうだ」という程度にしか語ることのできない、ゆらゆらと揺らめくような心もとない、成分70%が思い込みの「広がり」と”思える”ものでしかないのでしょう。

ここから先、わたしは何を手掛かりに、どこに向かっていったらいいのか、この間に記録し続けたノートを読み返し、振り返ってみました。

これは余談ですがここでいう「わたし」が探し求めるものは、必ずしもわたし一人が、自分だけのために、探し求めているというのとも、少し違うのかなとも感じています。
(飛躍するのは良くないですが、いよいよ明日取り決められようとしている安保法案然り…どうして今、その方向なのだろう?とギモンを感じて行動に移している人も多くいます。奥田さんの意見陳述の内容も、文章でしか読んでいませんが、じわじわと深く訴えかけてくる内容でした。)

” 最後に、私からのお願いです。SEALDsの一員ではなく、個人としての、一人の人間としてのお願いです。

どうか、どうか政治家の先生たちも、個人でいてください。政治家である前に、派閥に属する前に、グループに属する前に、たった一人の『個』であってください。自分の信じる正しさに向かい、勇気を持って孤独に思考し、判断し、行動してください。

みなさんには一人ひとり考える力があります。権利があります。政治家になった動機は人それぞれ様々あるでしょうが、どうか、政治家とはどうあるべきなのかを考え、この国の民の意見を聞いてください。”

SEALDs 奥田愛基さん 「意見陳述全文」より抜粋

これから「わたし」もしくは「わたしたち」は何処へむかって歩みを進めていけばよいのでしょう?ほんとうにこれからも前へ前へ、足を踏み出して進んでいくことがすなわち”善い”こと、なのでしょうか。

一人一人が、そうしたことに向かいあい、考える時間、思索の時代に踏み込んでしまったというような妄想が、今は頭の片隅に浮かんでいます。

かつてヒトであり ひとになり 人となり
急速に変貌を遂げた彼らは
めまぐるしい速度で退化していく

いつかのメモ。

”わしらはまず何事もよく知らねばならん
そして、まこと、それが必要となる時まで待たねばならん
あかりを灯すことは、闇を生み出すことにもなるんでな”

ゲド戦記『影との戦い』より引用

「現代人は常なるものを見失ったから無常ということがわかっていない」

小林秀雄『無常ということ』より

子供は7歳までは神の子という諺。
出産の儀礼は、女性の宗教者である巫女としての産婆を中心に村の女たちによって産神を迎えて行われた。
生まれた児はそのままでは人間ではなかった。その肉体に生命としての霊魂の宿ることが必要だった。

かつて、日本人ほど一生のうちに他人と仮の親子関係を結んだ民族はいないといわれる。

『日本を知る事典』より

”「わたしは、過去、現在、未来の中に生きようと思います。」
生きながら死者の目を持ち、自分の姿を、いつも普遍性の側から照らし出していることのできる、外の目を持っている必要がある。
そういう目を自分の中につくりだすことができたとき、人間の心にはなにか自由で軽やかな流動が発生するのである。”

中沢新一『純粋な自然の贈与』ディッケンズ「クリスマス・キャロル」より

今では抜け落ちている民衆という意識。
足元のエネルギーをどう考えるか。

鞍田崇+編集部『〈民藝〉のレッスン つたなさの技法』より

「旅する者は為す者でなくて見る人」

三木清

「真の芸術は民衆芸術である
芸術とは日常のよろこび
彼らの思想はどんなに強かったことか、それはいかに長く持続したことか
それはいかに遠くまで波及したことか

富とは自然がわれわれに与えてくれるもの」

ウィリアム・モリス

* * *

大概が引用になりますが、メモにとっていたものなので、本文の内容そのままではないかと思います。

今後自分にとって大事なキーワードになり得そうなもの・・・

感性・霊性・エネルギー・身体・祈り・見ること、聴くことの眼差し・信じること・待つこと・真ん中を探し求めること。

そうしたところからヒントを受け取りながら、安定したかたちで、根っこのある「思索」へともう一歩踏み込み、つなげてみたいです。

さいごに。

”信ずるとは責任をとること。
信ずることがなくなると、集団的になる
自分流に信じるものがないから、イデオロギーになる
責任をとらない力は恐ろしい
恐ろしいものは、集団になると持っている
ジャーナリズムにはインテリのことばしか載っていない
右も左もイデオロギー
私なんてない
反省がない、信ずる力を失った・・・”

誰のことばか、何の書籍か、メモをしていなかったのでわかりませんが、2014年、6月あたりのノートにはこんなことばをメモしていました。

「信ずるとは、責任をとること。」

少なくとも自分が信じると決めたことについては、責任をとれるひとになりたいものです。

秋の夜、雨が降り出しました。
明日の友人の結婚式が良きものになるといいなぁと思います。

中條 美咲