感受性のさき。

鬼のように怒りに身を任せ、その体内を流れる水という水で、ひとの世界を覆い尽くした今回の台風。

まだまだ刻々と事態が変わっていく中で、私たちの目に映った4年半前の既視感。

そういえば去年のこの時期は、広島の土砂災害、夏には御岳山の噴火、木曽での土砂災害もあった。水という水の勢い、多すぎる水がもたらすのは恵ばかりではない。特に、土との付き合いを疎かにしてしまっている今のわたしたちには、こうしたことが起きるたびに痛感させられる。

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どうしたら、この猛々しく荒ぶる自然をなだめながら、上手にやっていけるんだろう。。

「ヒトに問う」を読んで
風の谷のナウシカ 〜物語の断章を伝承するもの〜
「祈る。」ということ

 

“私は、ケルトの信仰がじつに理に適っていると思う。それによると、亡くなった人の魂は、動物とか植物とか無生物とか、なんらかの下等な存在のなかに囚われの身となり、われわれには事実上、失われている。ところが多くの人には決してめぐって来ないのだが、ある日、木のそばを通りかかったりして、魂を閉こめている事物に触れると、魂は身震いし、われわれを呼ぶ。そして、それとわかるやいなや、魔法が解ける。かくしてわれわれが解放した魂は、死を乗り越え、再度われわれとともに生きるというのだ。
われわれの過去も、それと同じである。われわれが過去を想いうかべようとしても無駄で、知性はいくら努力しても無力なのだ。過去は、知性の領域や、その力のおよぶ範囲の埒外にあり、われわれには想いも寄らない物質的対象(その物質的対象がわれわれにもたらす感覚)のなかに隠れている。この対象にわれわれが死ぬ前に出会えるか出会えないかは、もっぱら偶然に左右される。”

ー 『失われた時を求めて1 第1篇スワン家のほうへⅠ  岩波文庫

“もっぱら偶然に左右される。”・・・

 

目が醒めるように忘れていた記憶を呼び起こされることや、わからないと思っていた何かを、走馬灯のように受け取ってしまうことが時にある。

知ったつもりでもわかったわけでもなく、ただただ”感じ取る”という表現の方が近いのかもしれない。そしてその感覚を、自分以外の誰かに伝えるのはとても困難なことでもある。

わたしの場合、大きな自然のなかに包み込まれ、過ぎてしまったいつかの時間を思い起こした時に、こういう感覚に見舞われる。

島の地形。山のふくらみ、川の広がり、海の揺蕩い。
連なりや、繊細に幾重にも折り重なる色合い、谷間、揺れ動いていくもの、静まり返っているもの、緩やかに、大胆に、通り過ぎていく風景。
均質化できない、地平線に広がってはゆかない、うねりや、蓄え。
開いたり閉じたり、流れたり寄せ集まったり。

変化していくいろ、ひかり、こころ、きせつ。
ここに在る必要性、ここにいる必然性。作り上げて時に壊され、作り上げて壊し続け。
途方もなく続けていく、きっちり、整えながら積み上げていく。そうした営み。

わたしは感受する。ただただ受け取るばかり。
受容するとはどういうことか?わたしは感応し、こころとからだで受容する。
そうしたことに徹底してみる。
役割は受け取ること、受け入れること。

土地の声、月や海、森や木々の声。
地球の呼吸を感じてみたい。
そんなことができるだろうか?できるといいな。していきたい。

遊ぶように学び、感じることを育てる営み。
たのしみながら生きる。感動しつづけること。感じ続けること。
地球の巡りを知り、感謝すること。そうした気持ちの成熟。

気持ちが成熟するせかい。

母のいる海。海の中に母がいる。
星々や月の満ち欠け、

いきもののある姿を求め続ける。
戻るのではなく、求め続ける。

 

文学のなかにあるもの。そこで求め続けられる” 真実なもの ”。

知りたいというより、触れてみたい。一瞬であり、常しえへと続く、そこにあるもの。

音楽のように流れていく文学には、そうしたものが何層にも重なり合って、見え隠れしている。

 

そんななかゲンジツに立ち返った時には、盲目的な”思い込み”に捉われないように、ここでいう感覚そのものや、あらゆる事象を、緩やかに受け流していく術もまた、必要。

森羅万象が止まることなく動き続けるように、動物もまた、動き続ける物体のひとつということ。

中條 美咲