重たく身に纏っているひとつが、「思い込みの鎧」ということに気づかされるばかりの今日このごろ。
どこまでいっても「わたし」としての一人称の視点が、こんなにもわたし(自身)を苦しめ、身体を重たく纏い付くしてしまっているというのは、言われなければ気づけなかったことである。
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それと同時に、そうしたことを目の当たりにしたことで、より一層、本来の偏りがちのバランスは歪みを極め、一種極限的な力を発揮することにもなる。。
(もちろんそれは、あまり良いことだとは言えません。)
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ここまでの数年間、「自分でみること」「自分で行くこと」「自分で触れたり感じて、思うこと」に重点をおいて歩んできたとすると、それを意識したばっかりに、寄りすぎてしまった想いなど、「思い込みの鎧」がそろそろ重たくなり始めて、いよいよ「しんどいぞ」と気づき始めたところにあって、そうした指摘はちょうど良いタイミングなのだと感じています。
顕著なのは、先日同行させていただいた、総合地球環境学研究所のフィールドワーク「ローカル・スタンダートとは何か」を通して、触れた村の人たちの思いや、感情。そうしたものに出会ったあとに、メンバーそれぞれの眼差し・気づきの多様性に触れられたということ。
参照:(どれもわたしの視点になってしまいますが。。)
・昭和村スタンダードを探る。
・大丈夫、まだ間に合います。
・心を射抜かれた、ことばたち。
今までは、どこまでいっても「自分」からしか感じ得なかったせかい、そこにこだわり続けていたけれど、様々な視点が入り混じり、みんなそれぞれ示し合わせたように、違った立ち位置からその村を切り取っていたりして。
でもどこか重なったり、向かい合ったり交差したり。。
学問をすることの楽しさはもちろんのこと、一人では重たくしていくばかりの鎧を外して、あの人の眼差しやこの人の眼差し、いろんな人の眼差しを垣間見る行動が、どんどん自分のせかいを内側から押し広げていく力となって、みんなで寄り集まって、考えたり・感じたり・行動したり・・・そうした実践的な手法が本当におもしろい!ということに気づけた、この秋。
謙虚さと尊大さの間で揺れ動く2つの「自称」が、「自傷」となった「じしょう・ライター」のわたしは、もはやこの傷を胸に、もう少しだけ恥を覚悟で人々の思いと眼差しの渦の中へ、ずっぽりと大きく足を踏み入れてみよう。と、決意を改める秋、でもありました。
なんといっても、目標は、ことばと眼差しを通じた「紡ぎ人」となることです。
ここで紡ぐことばは、現在の価値で生きる人々だけでなく、自分たちの子どもやその子ども、今ある価値観がいろんなかたちで様々に変化したとしても、耐えられる根っこを持ち、通じていくものでなくちゃ仕方がないと思います。
そこまで地球が元気でいてくれなくちゃ困るということも含めて。
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まだ秋は始まったばかりではありますが。
人の厳しさ・温かさに触れるたびに、生きていく力を耕しています。
人間が人間らしく生きるために最初に用いた”火”の力。
感情の”火”つけ役であったり、つながりの”火”つけ役であったり、支えるためのまろやかな”火種”であったり、、、
食べていくことは、もちろんながら、人とつながっていく上でも”火”は欠かせない要素だなぁと、秋風を感じつつ、思いました。
今は”火”的な、勢いだけで成り立っているこうした文章も、「きちんと正確に伝えられるように」もう少しとろ火でじっくり、時間をかけて煮込んでいきたい今後です。
中條 美咲