自分の感受性くらい…

茨城のり子の有名な詩の一片は、タイトルの通り。

まん丸に追いかけてくるトンコロピーなお月さまや、今にも真っ赤に染まって溶けてしまいそうな夏の日の夕焼け、むせるように肌にまとわりつく湿気を含んだ空気とか、足元に痒みと共に記された幾つかの赤い斑点。

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同じ木は木でも、色も違えば質感も違い、成長の速度、風や光の好み、わしゃわしゃだったりすっきりだったりしゃきーんだったり・・・

そうしたあらゆる自然の要素に、背中を後押しされるように、づんづん・ずんずん。

ひゅーんとぴょーっと、どびゃーっと、勢いをもって動き出して深まっていくのは予感だけではない現実として。

自分が自分の感受性を身につけるというのは、一体どんなタイミングだったろう。

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感受性という不確かな目に見えないものを、どうして守っていかねばならぬのか。

感受するということを、様々な角度から、人々の姿や生き様から、精一杯感受して受け取って、それだけで終わりにするのはあまりにも勿体がなく、そしたらどうする?いざ生きめやも。

生きたまま、見つけて気づいて育てて、つなげたり渡していくにはどうしたらいいのだろうと。
(そういえばちょっと戻って、勿体ないの「勿体」の語源ってなんなんでしょう・・)

つなげるつなげたいといっておきながら、つなげることの大変さ。

ほんの気遣い、小さな手土産、ちょっとしたお礼状。

出会ってお世話になった人々へ、思うだけでない現実の行動。

そうしたささやかなお手間を取り戻して、習得していくこと。

ひとつひとつ取りこぼしのないように、学んでいかなくちゃならないことだらけ。

 

86歳の千恵さんの白くてふっくら艶のある、あたたかな手。
92歳てる子さんのぎゅーっと力強いパワフルな握手。

時間と人生とその生き様は、間違いなくそうした手のひらに滲み出す。

今は亡き恵子さんの手も、きっととっても、柔らかかったのだろう。。
もっと早くから、近づいて話をきいて手を握っておけばよかったな。

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生きているひとに、生きているうちに、出会えたことの有り難さ、その人たちの生きた姿に触れて感じたことをきちんとそれぞれのかたちで心に刻み、伝えていくこと。

そうしたことに全身全霊で、自分の感受性を注げたらそれはある意味本望である。

なんてったって、自分の感受性は自分で守り、水をやり、育てていくものだから。

自分の感受性くらい

ぱさぱさに乾いてゆく心を
ひとのせいにはするな
みずから水やりを怠っておいて

気難しくなってきたのを
友人のせいにはするな
しなやかさを失ったのはどちらなのか

苛立つのを
近親のせいにはするな
なにもかも下手だったのはわたくし

初心消えかかるのを
暮らしのせいにはするな
そもそもが ひよわな志しにすぎなかった

駄目なことの一切を
時代のせいにはするな
わずかに光る尊厳の放棄

自分の感受性くらい
自分で守れ
ばかものよ

ー茨木のり子

彼女たちのように、強かで確かな女性に、わたしもなりたい。

中條 美咲