沈んだ白玉が浮かび上がるのをすくい上げるように
そこに現れるのは、できたてほやほやの真っ白な「詩」であるような。
浮かんでくるのを心待ちにするのでもなく、
ときおり「ことば」は自らぽこぽこと浮かび上がる。
浮かび上がった「ことば」のひとつひとつを、
丁寧にすくい上げたいという気持ちはゆっくり確実に、育ちつつある。
いつかの「ことば」は
考えて発されるものではなく、あちらからぽこぽこと浮かび上がってくるものだった。
そういうことばは数少なくても、
初めてピアノの鍵盤を指で叩いた子どものように、
変幻自在に躍りだす。
*
鷲田清一さんの「ことばの顔」という本がたのしく、自由に浮遊するように、ゆっくりぱらぱら読み進めている。
鷲田さんは「哲学者」であるらしい。
本人がそう思っているかは別として、一般的にはそう呼ばれている。
肩書きというのは、ときにそれ以外の情報を蚊帳の外に追い出してしまう傾向があって、
ひとつのイメージが定着すると、本人以上に、まわりの誰もがその「イメージ」のなかに目の前のその人を当て込めてしまおうとする。
そういう効果が強くはたらいてしまうのが、「肩書き」というやつなんじゃないかなと、
肩書きのないわたしは思う。
肩がこるだろうなぁ。
ひとまずの安心もあるかもしれない。
窮屈でいやになっちゃうときもあるのかなぁ。
振りかざしたいひともいるだろうし。
みんなそれぞれに、そうした「肩書き」の顔をおもてに出しながら、それぞれの役柄を生きている。
「哲学者」である鷲田さんのことばがいいなぁというのではなく、
鷲田さんのことばがいいなぁ。そういえばこのひとは「哲学者」なんだった。
(哲学的な知識をたくさん持っていて、そうした知識と本人の感性が相まって、こうしたことばが生まれ得るんだなぁと。)
そのくらい肩の力を抜いて、目の前のひとと向かい合えたらいいなと思う。
もちろん失礼なやつ。と思うひともいるかもしれないし、その逆で、いつも背中にのっている肩書きをよいしょと降ろして、顔を突き合わせてもっとおしゃべりしましょう。といってくれるひともいたりもする。
*
空 語 ー 荒川洋治
” 本当に思っていることを、うまく書けない文章のほうがときには文章としては上である。”
(荒川洋治著『本を読む前に』より)
学生の頃はじめて読んだ谷川俊太郎の詩の、出だし。
” 何ひとつ書くことはない
私の肉体は陽にさらされている
私の妻は美しい
私の子供たちは健康だ “(「鳥羽1」)
幸福だなあと思った。不幸だなあと思った。
言葉はないほうがいいなあと思った。言葉がないとやっていけないなあと思った。
言葉はいつも過不足。ぴたり、という感覚は奇蹟のようにしか訪れない。言葉がそれにぴたりと合うもの、それじたいがたぶんどこか言葉で編まれるところがあるからだろう。
言葉以前というものは、たぶん、もう、わたしたちにはない。ー 鷲田清一著『ことばの顔』より
平日のみとか言ってみたけれど、とらわれなくてもいいやぁと改める。
気持ちのいい「あお」のにちようび。
中條 美咲