「聴く」ことの力から生じたうねり。

鷲田清一さんの著書、『「聴く」ことの力 ー臨床哲学試論 』を読んだ。

内容についてはこの後、” なが・なが ”と続いていくとして、本書のなかで音楽のように、どこまででも広がっていくようで、ただそこにとどまり続けているだけのようにも感じられる写真家、植田正治さんの重低的な伴奏写真があることの心地よさ。

なくてもいいけど、あったほうがいいものは、本当に多い。

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モノローグの中で鷲田さんは「哲学はこれまでしゃべりすぎてきた……。」と書かれている。そして、「アカデミックな哲学というものに、漠然と感じてきた ” ひっかかり ” である。」と続く。

まことのことばを知るためにこそ、わたしたちは語ること以上に、聴くことを学ばねばならないということだろうか。くりかえして言えば、わたしがここで考えてみたいとおもうのは、この〈聴く〉ということの意味と力についてなのである。

このようにして、〈聴く〉とはどういうことか、「語る」でも「分析」するのではなく、「聴く」ことをするような哲学のあり方について考えてみたいというところを出発点に、じわじわと話は深まっていく。

本に書かれていることを上手に伝えられそうにもないので、個人的な話をちょこちょこと挟みながらゆっくり進んでいこう。

わたしは、自分の中に強い「意志」を持っている(と思う。)
それは、一般的に万人受するものでもなければ、どうしてそんな意志を育て上げてしまったのか、ない方がよっぽどか上手く生きていけるのだろうに。という類の、自分でも今のところ、上手に取り扱うことのできない、なかなか手が焼ける存在だと思う。
けれど、この存在はきっと、わたし一人の考え方や感じ方のなかで育ってきたものではなくて、むしろ、今までに出会った人や読んだ本、いろいろなものや場所、人に触れて、その都度、そんな人たちのなかにあるなにかしらの「意志」に共感を覚えたり、吸い寄せられるようにして受け入れて、知らぬ間に少しづつ少しづつ、カラフルな糸を紡いでは、編み合わせていくようにして、自分のなかに育てつつあるものだと思っている。

きっと、わたしだけでなく、このブログを読みにきてくれる人も、各々に、そうした「意志」を大切に育てたり、守ったりしているのだと思うのだけど、どうでしょう?

 

だからこそ(?)、わたしはあいての中にあることばや、ことばとしては出てこないけれど、ことばを発しようとするときの「間」であったり、呼吸、ぐるぐると頭を回転させて考えている様子を含めて→「聴く」ということが大好きで、できることなら、ただただ聴いていたい。ひたひたと、気持ちの良いリズムや空間に身を浸していたい。とおもうのだけれど、(もちろん自分が快と思えることばを。)もちろんそれだけでは、物事は成り立たないので、そうしたことばを聴きたいのであればきっと、それに見合った力を自分自身が持ち合わせていなくちゃならないと思っている。
そこでは、どうしたってこの人に聴いてほしい!と思わせる何かであったり、この人に聴かれることで、なんとも言い難い幸福感に浸ることができる…というような相互的に満足のいく関係性が求められる。

その点、上でも鷲田さんが指摘されている通り、今の風潮では(そろそろ潮時かもしれないけれど。)「この人がなにを言ったか・どんなことばを語ったか」ばかりが大きくクローズアップされて、それにともなって、個個の声も、「自分にはなにが言えるのか」「どんな効果的な、インパクトのある一石を投じられるのか」ということばかりに意識が集中してしまい、そればかりに集中していると、ひたすらに力みっぱなしで、一点突破のような感じで息苦しくて聞くに堪えずに、うんざりもしてしまう。

「第三章 遇うということ」の中で、鷲田さんはこのように書かれている。

1 沈黙とことばの折り合い

ひとはふつうのことばの不在を懼れる。ことばが途切れたとき、そしてどちらからもとっさの不在を埋めることばが出てこないときの気まずい沈黙。(中略)ひとはこういう空虚に耐えられず、どうにかしてことばを紡ぎ出そうとする。だれが話しているのかじぶんでもよくわからないようなことばが、次から次へ虚空に向かって打ち放たれる。が、そのことばは相手のうちに着地することもなく、かといってじぶんのもとへ戻ってくるわけでもなく、ただ空しい軌跡を描くばかり……。そして、ことばではなく、その不在だけがしらじらとあらわになってくる。(中略)そしてじぶんは、一刻もはやく、その場を逃れたがっている。

わたしたちがいま失いかけているのは「話しあい」などではなくて「黙りあい」なのではないか。かつて寺山修司はそう問うた。

誰しもが一度は経験したことのある、断崖絶壁のような気まずい沈黙。

けれど、わたしは、時折そうした「沈黙」の中に、とてつもない「愛おしさ」を感じたりもする。
中途半端に発され、壊れてしまうのであれば、「沈黙」でいいし、「沈黙」の方がいい。

「沈黙」というのは、とても不思議で、初めのうちは足元に迫り来る断崖絶壁、真っ暗な空虚のように感じられもするけれど、慣れてしまえば案外ぬるま湯程度の温度を持ち合わせており、浸っているうちにじわじわ・ほかほかと内側の方があたたかく発熱を始める。

また、ことばが「ふれる」ということについて、このように書かれている。

「ふれる」というのは「さわる」のとはまったく逆の体験として発生している。というのも、「さわる」という行為が主体と客体との隔たりをおいた関係として発生するのに対して、「ふれる」というのはふれるものとふれられるものとの相互浸透や交錯という契機をかならず含んでいるからである。「ふれる」ことは「ふれあう」こととして生成するわけである。
そこで「ふれあい」ということばを思いだしたいところだが、しかし、美しいが毒がなく、標語となってその厚い意味をすっかり擦り減らしたこのことばではとてもとらえられないような出来事として、「ふれる」という体験はある。(中略)
「ふれる」ことには、常ならざるものとの出会い、そのいのちにふれ、逆にそれに憑かれるという意味が含まれる。そのかぎりで、「ふれる」ということは一種カタストロフィックな経験だ、と坂部恵は言う。

ひゅーんと飛び越えて、「第七章 享けるということ」へ。

2「時間をあげる」、あるいは無条件のプレゼンス

わたしたちはその生の始めと終わりに、他人とともにこのじぶんの生に触れる。そのとき重要なことは、なにかのためではなしに、ただここにともにいるのであって、それ以上でもそれ以下でもないという、ただそれだけの事実のなかで、だれかとともに自分の最期を迎えるということである。

ここまでくると、もはや、意味や理由、役割すらも飛び越えた存在として、「ただここにともにいる」という境地へ踏み込んでいく。

そして哲学試論はこうしたところへ分け入っていく。「第八章 ホモ・パティエンス」

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《ホモ・パティエンス》、苦しむひと。受ける、被る、苦しむ、容れるといった意味をもつラテン語の動詞 patiorからきていることばである。パッション(passion)も同じ語源からくる名詞だが、これには受動・受苦・受難という意味のほかに、情念の意味もある。

5 どっちつかずの明るさと

ホスピタリティ※の道は、おそらく適当に休みながら、できればいっしょに休みながら、道草もして、うねうね進むしかないのだろうとおもう。この過程をともにすること、なんの目的もなくいっしょにぶらぶら歩くこと、このぶらぶら歩きがもつ意味を、その途すがら考えつめること、そこに臨床哲学の道があるようにおもう。

※ここで話されるホスピタリティは「無償」「浪費」「蕩尽」のこと

ホスピタリティということばは、よく耳にするけれど、まさかここまでの覚悟が必要とされるものなのか…ということへの驚きもあるなかで、それでもこのように無駄に無駄を尽くして臨床哲学、「聴く」ことの力を高めていった先には、一体どんな景色が広がるのだろうと、またしても(どうしようもない)尽きせぬ好奇心が湧き起こったことも事実。

わたしはしばしば、自分が何者であるとか、どんな役割を担っているだとか、社会のなかでの立ち位置を未だにじぶんで決められずに、内側の採掘に向かいながらも、こうも安定していない立ち位置が情けなくて、穴があったら入りたいとばかり思っては落ち込んでいるのだけれど、この本を読んだことで、すっかり気持ちが楽になった。
そして、身近な人たちに、まだまだ迷惑をかけてしまうことを予想しながらも、このまま地道にうねうねした道を、ぶらぶらと進んでいくのも悪くないかな。などと思っ(てしまったりし)たのでありました。

行き先不透明の道すがら、肩書きも役割もどこか遠くへ追いやって、初めから持ち合わせていないことをよいことに、わたしは〈わたし〉を探すように、まことのことばに触れてみたいと決意を新たに?精進あるのみ。(でもゆくゆくは、もちろん恩返しもしたいのですが。)

 

雨粒の音に乗せられて。
胎児は母体のなか、降り注ぐ雨粒のような声たちに、ひたすらに耳を澄まして聴き入っています。

ただただ「聴く」こと。ひたひたに聴き入ること。
こんなに幸せで、満ち足りた時間も外の世界ではなかなか得難い時間です。

 

それではこの辺で。

中條 美咲