「育てる・育つ」ということについて考えてみたいと思います。
みなさんは誰かを育てたり、何かを育てたり、意識して「育てた」「育てられた」という経験はありますか?
そんなのあるに決まってきます。
わたしはこの世に産まれた瞬間、まだ瞼もしっかり開かない頃から、母という大きな存在・絶対的安心感という胸の中で、確かに大切に、見守られ、手を焼かれ、「大切、大切。」と思われながら、随分大きくなりました。そこには母だけでなく、ジョリジョリとした髭をこすりつけてくる父であり、祖母であり、祖父であり、学校の先生、習い事の先生、友達の両親という、小さな地域社会の様々な人の存在がありました。
多くの人々は、その感じ方に個人差はあれど、きっとそのように大切に見守られながら育ってきました。ある、一定の時期までは。
成長するにつれて、私たちは手をかけ大きなひさしとなり、傘となり、毛布のように包み込んでくれるあたたかいぬくもりを引き剥がし、外に出て行くことになりました。今までは育てられるばかりだったけれど、これからは自分で育っていかなくちゃならないからです。
こんなに居心地がいいのに、どうしてこの場所を離れなくちゃならないんだろう?
寂しくて悲しくて、不安もいっぱいで「戻りたい」、何度もそんなことを感じながら、でもこれからは自分の足で進んでいかなくちゃならないんだ。と強く心に決めて、ぬくもりのある場所を離れた人もいれば、そんなぬくもりにいい加減うんざりして、そそくさとこんな場所抜け出してやる〜!と勢い力んで飛び出した人だっているでしょう。
その一方で、みんなこのままここにいていいと言ってくれているし、まだいいかな。悲しませたくないし。もう少しここにいよう。
そんな風に、産まれた場所を離れる機会を逸してしまった人だって、少なくないはずです。
まだ名もない「道」について書かれた連載記事を、ある人から「宿題ね。」と受け取りました。
その連載とは、ここ数年間のものづくりにおける現状や、作り手のあり方、繋ぎ手の役割に関して警笛を鳴らすような、一石を投じられるように、書かれた内容です。
そんな連載の中で、わたしは気になる節にぶつかりました。
それは、いまの若い(ものづくりをして生きていこうとする)人たちは、師匠や兄弟子のような存在がおらず、学校でものをつくることは習うけれど、学校を出たときにどうやって生きていけばいいかわからない。あまりにものを知らなくて、いいものを作る、自分のやりたい方向性のものをつくる以上に、市場に何が必要とされているのか、売れるかばかりを気にしている。というものでした。
この部分にさしあたり、わたしは妙な納得と、ズバリ言い当てられているような気持ちになりました。
多くの大人たちから、ゆとり世代・悟り世代と呼ばれる私たちは、(対象としてはもう少し上の世代まで括られるかとも思いますが)随分大切に育てられた分、自分で生きて行く・生き残って行く・育っていく手段や方法を、あまり深刻になって考える機会がほとんどないままに、はじめから強風や暴雨を浴びる機会なく、温度が一定に保たれている立派なビニールハウスで育てられる野菜のように、画一的につるつるピカピカ、甘みは増したけれど、苦みや渋みは減ってしまった存在として、世の中に送り出されてしまったのかもしれないなぁと。
そうしていざ出荷された時にさらされる最初の荒波は、見た目や鮮度ばかりが良しとされた上での「価格競争」。
世の中に出て一番最初に「あなたの作品はいくらです。」「これならいくらが妥当でしょう。」と、まるで自分の存在そのものに価格を付けられるかのようにして、判断を下されるのです。
これはとても惨い現実だなぁと思います。
ようやくそれまでの画一的なビニールハウスを出て、自分の足で歩き出そうとした途端に、自分の価値が決まってしまう。本当はこれから少しづつ、自分の足で歩いて進みながら、いろんな先人たちの想いや生き残って行く術や方法をまずは知ることから始めていきたいところなのに、市場はそんなにゆっくりとは待っていてくれません。
あななたちは環境が保たれたビニールハウスの中で、立派に商品として市場のみなさんに選ばれるように育ってきたでしょう。ものをつくる本質などに分け入る時間はないのだから、せっせと市場の期待に応えましょうよ。求められたいでしょう?ちやほやかまってもらいたいでしょう?
市場がいいと言ってくれるんだから、大丈夫。
そんな何者かのささやきが常に付きまとう。極端で一方的かもしれないけれど、市場経済の中で生き残っていくというのは、そういう風になることが求められるということなのかと思ったりします。
もちろん市場からの価値を全く無視することはできません。求めてくれる人、必要として、生きていて、続いてほしいから、あなたの作ったものにお金を払いますという存在がいなければ、ものを作り続けることも、生き続けることもできないのは事実であり、励みです。
そんな私たちが、本当の意味で必要としている存在ってなんでしょう。
目にすることも実体として触れて感じることもできない漠然とした「市場」から下される価値なのでしょうか。わたしはそうは思えません。
わたしならきっと、手触りやぬくもり、痛みや温度を必要とします。それは刺激であり実感です。自分が自分で感じるということ。自分で感じて、自分でよく考えて、相対的に物事を見た中で、自分がいいと思った方向へ舵を切るということ。その中には必ず、自分一人だけでない、先を行く人たちの視線が必要です。手助けではなくとも、見ていてほしい。そして時折、それはちょっと違うかもよ。と正面切って指摘してほしい。
それは上でも話されている、「教育者」「師匠」「兄弟子」「指導者」といった奥へ奥へ掘り起こし、開拓してくれる存在ではないでしょうか。
必要以上に踏み込むことも踏み込まれることも苦手とする世代です。
関係性はどこまでもスマートでゆるやかな横のつながり、仲間意識を大切としています。でもゆるやかで横のつながりだけでは根っこは太く安定しません。
必要以上に踏み込んで踏み込まれては根っこが傷ついてしまう。かれらは傷つくことになれていません。だって、傷がついたら売り物にならないから。傷ついたあと、どうやってさらに幹を太くしていったらいいか、わからないから。
でもほんとうにいいもの、生命力にあふれていて、どうしようもなく惹きつけられてしまうパワーがあるものって、きっとものすごくたくさん、踏み込まれて傷ついています。雨も風もたくさん浴びて、その分太陽の日差しもたっぷり浴びて。ゆっくりゆっくり地を固めて、じっくりじっくり、育っていきます。
ただそれは一人ではどうしても続いていきません。今はまだ生き残る知恵をもっていないのだから。知恵が必要です。本質までぐーっと踏み込み、叩き起こしてくれる情熱も必要です。
表面だけ撫でて終わりでは困ります。
そういった関係性、一歩踏み込み、じっくり関わり、深めていく。
そういった経験なしに、たった一人で、そうしたところまで到達することは、なかなか難しいだろうとわたしは思います。
今、様々なところで一番必要とされているのって、そうした「師匠」「教育者」の存在ではないでしょうか。
受け取った小さな宿題を、どんな風に咀嚼して紐解いて答えらしきものを手繰っていけるのか。
それはこれから、時間をかけてわたしが取り組まなくてはならないものであり、わたしだけでない、これから育ち盛りの多くの若者たちの間で、共有していかなくてはならない宿題なのかもしれません。
土砂降りの雨。1日のはじまりです。
それではこの辺で。
中條 美咲