感覚的で直感的。やさしい陰陽とこよみの話

風邪が治りかけるとき、黄色く固まったどろどろとしたものが、体の中からたくさん出てきたりして。今、体の中から出ようとしているどろどろしたものたちはなにかの死闘を終えた、戦いの痕跡なのか、半年前からたまり続けたいらないものの塊なのか、一体なんなんだろう。なんて、とりとめもなく考えた。

春の鼻水のように、流れっぱなしで終わりがないというのはとても苦痛で、夏。片っぽの鼻は完全に詰まって喉にも何ものかが潜伏していて、呼吸がうまくできないのもこれはこれで苦しい。

体の中で起きている出来事、声にはならないけれど、こんなにもアピールされてしまっては、労らなくちゃと思うばかり。。

ほんとうは先週末のこと、瀬戸内・四国を巡った足跡を記したいなぁと思いつつ、こんな風に体の中で起こっている出来事について書き始めてしまったので、昨日参加した、『暦の話』について書いていこうと思う。ここでの記し方は行ったり来たり。印象に残った言葉をとつとつと置いていく。

東京の世田谷区、閑静な住宅街(わたしにはとても縁がないところ)の一角に、Jikonkaさんというギャラリーがある。とてもすてきな場所で、わたしはこの場所に密かなシンパシーを感じている。

そして今回は、2回目の訪問だった。
参照:素直に生ける、実感で生きる|紡ぎ、継ぐ

 

暦の話が始まる前に、植松良枝さんの夏の滋養たっぷりの食事をいただき、旅疲れと風邪を引きずるからだを喜ばせ学問のじかんへ。

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お話してくださったのは、富田貴史さんという方で、「暦」に詳しく、大阪で茜染の工房を営みつつ、八丁味噌などを作っては、福島原発で働く人に届けていたりもするとか…。とりあえず、見た目からして風変わり。真っ赤に染まった茜色の両手からはエネルギーが溢れ出ていて、タフな生命力を自らの中に磨き上げている。時代をいくつかスキップしちゃっているようなそんな風貌で、とてもわくわくさせる何かを持ち合わせている人だった。

富田さんは、「自分のライフスタイル」×人の数=社会になっていると言っていた。だから、自分のライフスタイルが社会づくりに影響している。大人がせかせば、子供たちはせっかちにもなるし、大人の事情を子供たちは気にしていると。

なので、そうしたことを暦とともに「発信したい」のだそう。発信するというのは、単に知識を広めるだけでなく、文化を発信し、自分たちの手で、文化を作っていきたいからだと話されていた。
ここは東京。一昔前の江戸。江戸人が変われば日本が変わる・・・みたいな。

知識がなくてもどうにか生きていけるけど、感性がゼロで生きていくのは不可能。知識でガチガチに固めてしまっては、はまりすぎて攻めるばかり。マクロビも今はそういったガチガチの印象が大きくなってしまったけれど、もともとはそうじゃないかったんだよと。
そのために、私たちはものさしを手にするけれど、それは答えではない。

陰陽は世の中の1つのエネルギーを2つに分けたもの。常に対で1つ。
「毒と薬」「内と外」「上と下」「裏と表」
善悪二元論はあくまでも政治的。陰陽は目的によってその役目や効き目も変わり、流動的。
陰陽はやさしく、感覚的で直感的。
善にもなれば悪にもなる。極まって転ずる。

陰陽の「陽」は火。
火にかけるとものは引き締まり凝縮し、下降し、集中する。そこに働くのは「固める力」。
陰陽の「陰」は水。
水は緩み、拡散し、上昇し、遠心する。そこに働くのは「緩まる力」。

地球は水と岩でできている。陽性のものをとって戻っていく必要がある。
今は陰性の食べ物がとても多く、どう陽性にしていくかがとても要。そのために必要なのが、天然のミネラル。人間のからだもミネラルが集中して個体として成り立っている。
ミネラル分のない、白砂糖や小麦、精製された白いものは中毒性があり、どんなに食べても満たされない。その分からだの中のミネラルを使うしかなく減っていく。
ダメになっていくところにいつだって快楽はある。

富田さんは、首からお手製のごま塩の入った小瓶をぶら下げていた。お守りとして、たまに塩気が足りない時は、ご飯にかけたりしているらしい。今ではごま塩を首から下げる富田さんの方が物珍しいけれど、富田さんに言わせれば、昔の人は味噌や塩など、薬となり滋養になるものをいくつも腰にぶら下げていて、自分の命は自分で養う意志を持っていた。ぶら下げてない人は逆に、人に頼って生きてるのかな?と思われたんじゃないと。

信憑性があるかどうかはさて置き、自分の命を自分で養っている、自分のからだのために、養生することへの意識は、旧暦に沿って暮らしていた頃の方が、格段と高かったんだろう。

暦というのは、循環。太陽の巡り。〈1日と1年〉は似ている。時間の流れが断片的。
今使っているグレゴリオ歴はよく作られているけど、この土地に生きる自分たちにとって「なぜここが正月?一年の区切り?」はっきりした理由はない。
世界中でビジネスをしやすくするために明治時代に暦も変わったけれど、「内臓を売ったつもりはないよ。」
どんな地図を使ってせかいを見るか。2つや3つは使い分けられる。
暦を知るのは帰り道を知ること。帰り道がわからなくなるからバランスを崩す。

自分が暦の読み手になることは、いちばん身近な「自然」=この「身体」と密接になれる。

イネということばは「命の根」。イネの循環が「年」につながっている。
稲は米だけではなく、藁にもなった。藁納豆や染めの焙煎、味噌や酒、ぬか漬けとして必需品。
本来人がつくったものなど何もないという感性。
地球が巡ったから全て生まれたという感覚。

切り替わりの季節が「土用」。季節の終わりに18日間自分をみつめてしっかりセンタリングする。
人間は慣れてしまい、どこまでも続くと思ってしまう。特に夏の土用は180日間浴び続けてきた太陽の光が弱まる方に転ずる前なので、変化が激しい。

それを身体に教えてあげるように養生するのが土用の期間。

季節は「春→夏→秋→冬」ではなく
「春→土用、夏→土用、秋→土用、冬→土用」と巡っている。
一度中心の土に還って、1つの巡りを俯瞰する。そして次へ行く。

僕は意識体であり、肉体は借りもの。
内臓は死ぬまで永久就職。本当に健気に生きようとし続けてくれる自然物。
だから養生しなければならない。

 

この人の生き方がいい、生きていてほしいからお金を払う。
そんな関係性の中、借りものの肉体を養生し、この文化を広めようと活動している富田さんからは、太陽エネルギーそのもののような、燦々とした「陽」の気が降り注ぎました。

 

私はどちらかというと、月の光についつい引き寄せられがちで、ミネラル不足。
岩のように固める力が乏しく感じていたので、今年は特に「塩気のある夏を!」心がけようと決意しました。

暑さのピークはこれからですが、6月22日に夏至を過ぎ、太陽の光は緩やかに弱まる期間に入っています。今年の夏の土用は7月20日〜8月7日(下弦の月)。

立秋は8月8日です。

夜の自分と昼の自分は対になり、冬の自分と夏の自分も対になる。

ひとつの循環のなかで「今」を捉えることができたなら、柔らかくおだやかに、日本古来の草木のように多種多様、お互い様に生かし合って健康に生きていくことができるように感じて、「こよみ」に沿った暮らし方が、また少しづつ広まっていったらいいなぁと思うばかりです。

それではこの辺で。

中條 美咲