よそ者という自覚

先日、友人と横浜で食事をする機会がありました。

せっかくであれば少し面白いところへ行ってみたい。と思い、前々から気になりつつもなかなか踏み込めていないエリア、”野毛”にいこうと思いました。

今は、インターネットさえ使えば、どんなディープな情報でも簡単に手に入れる事が出来ます。普段と同じように某サイトで人気の高いお店を検索し、地図を頼りにお店に辿り着きました。とてもスムーズに便利な世の中です。

 

そこは隣近所と本当によく馴染んでいて看板もなく、一見すると昭和の民家でしかありません。

一度素通りしてまさかここじゃないよね、、という具合。

 

私たちはしばらくそのお店の前で立ち尽くしてしまいました。

看板がないからでしょうか、それとも磨りガラスで店内の様子がわからないからでしょうか・・・店内はかなり賑わっていることは伝わってきました。


しばらくその場で迷いつつ、今回はそのお店には足を踏み入れず、別のお店を探す事になりました。

 

そのお店について後日再検索をしてみたところ、なんと1919年。大正8年創業で第二次世界大戦で横浜一体が焼け野原となり、1946年に今の場所で再会されたそうです。
現在の女将さんは創業者の娘さんで御年91歳になり大学生のボランティアなどもあり、女将さんの体調に合わせ週3日ほど営業されているとのこと。

”野毛”というエリアは敗戦後、日本人街としてとても賑わいをみせ、闇市としても機能していたそうです。小さな飲み屋さんがひしめき合い、とても桜木町やみなとみらいとはかけ離れた印象を感じます。

横浜には住み始めて4年ほどになりますが、とても裏と表がはっきりとした地域だと思います。

その辺りもいずれ書ければいいなあと思います。

 

 

最後に・・・

情報さえ手に入れてしまえばどこにでも簡単に足を踏み入れられる。

今となっては当たり前にそのような感覚で生活しがちです。

 

しかし本当にそうなのでしょうか?・・・

こちら側(踏み入れる側)はそれによって新しい知らない世界を知る事が出来、そこを訪れたことで満足感も高く良い経験が出来たと喜ばしく感じるかもしれません。

ただ、長年その場所でお店を営む店主さんや、その店に通い続けている常連さんにしてみたら、突然よくわからない若者や地元以外の連中が増えてきたなあと。少なからず感じるはずです。

それが日常になったとき、馴染みのあったはずのその場所は以前からの店の雰囲気とは全く別ものに様変わりしてしまいます。

極端な話、常連さんたちの方が居心地が悪くなりその店から遠のいてしまう可能性があるということです。

 

それが良いとか悪いという話は不毛なのでどうしようもありませんが、少なくともそういったことを踏まえる必要性が今後大切になってくるように感じました。

今に始まったことではありません。

きっと、お店にしても自然にしても。限られたその周辺の人たちの間だけで大切に守られてきた場所。

そこにお邪魔するのであれば、私はよそ者です。ということを理解した上でひっそりと、勇気を出してお邪魔する。

今後はそういった気持ちをもって訪れた場所に対していきたいと思いました。

矛盾していますが次回は勇気を出してあの扉を開けて、ひっそりお邪魔してみたいなあと思ってしまいました。

それでは今日はこの辺で。

中條  美咲