流動し、変動しつづけるものたち

中沢新一さんの著書、『純粋な自然の贈与』の中でインディアンの思考法について記された内容が印象的だった。

”インディアンの思考法では、贈り物は動いていかなければならないのである。贈り物といっしょに「贈与の霊」が、ほかの人に手渡された。そうしたら、この「贈与の霊」を、別の形をした贈り物にそえて、お返ししたり、別の人たちに手渡したりして、霊を動かさなければならないのである。「贈与の霊」が動き、流れていくとき、世界は物質的にも豊かだし、人々の心は生き生きとしてくる。だから贈り物は自分のものにしてはならず、たえず動いていくものでなければならなのである。(中略)
ところが、ピューリタンはそれを暖炉の上に飾ったり、博物館に収めたり、貯めたりする。(中略)インディアンにとって、それはまことに不吉の前兆だった。大地と人のあいだを動き、循環していたなにものかが、とどこおり、動きをとめていく。そのかわり、そこには個人的な蓄積が、将来の増殖を生むという、別種のデーモニックな力が、徘徊していくことになる。それは人々の物質的な暮らしは豊かにするだろうが、魂を豊かにすることは、けっしてないだろう。なぜなら人間の魂の幸福は、つねに大地を循環する「贈与の霊」とともにあるものなのだから。”

日々何気なく行っている贈り物という習慣にもかつてはとても大事な意味があり(今とはまた違う意味合いの)、留めて蓄積していくことが不吉の前兆だったというのは、言われてみれば循環していく自然に反している。と思えなくもない。

この本では目には見えない魂や霊、自然の意味を持つ「ピュシス(変化する現象の根底をなす永遠に真なるもの)」について多く語られている。
「すばらしい日本捕鯨」や「バルトークにかえれ」、ゴダール映画『マリア』からの気づきを章にした「バスケットボール神学」、クリスマスという贈与の習慣について書かれた「ディッケンズの亡霊」などどれもこれも面白く、水を得た魚のように目をキラキラさせながら(あくまでイメージとして)読み込んでいった。

目に見えない不確かな「魂」や「霊」、「永遠に真なるもの」について思いを巡らせたとき、人のこころにはたくさんの新しい芽吹きがあるのだと直感した。

わたしにとって「幸せ」というあいまいな価値観や、「神」という存在が大きくなればなるほど生き生きとしたみずみずしい芽吹きの力は消耗してしまい、覆い尽くされるばかりの圧迫感を感じるこの頃。
ここに描かれている、かつての人々が共有していた自然そのものの中にうごめく「贈与の霊」であったり亡くなった人の魂という存在に触れた時、とても豊かな気持ちに満たされた。

「幸せ」や「神」という一方的な価値観はそれを持つものと持たないものと大きく二分してしまったり、分け隔てることによって迫害や戦いに結びついていくのかなぁとか。頭が悪いなりにも感覚としてそんなことを考えた。

中沢さんの言葉を借りてまとめるとこういう風になる。

”生命の原理としての霊(ガイスト)は、死の原理を内包した貨幣を否定する。しかし、その貨幣を資本に転化する近代の運動は、まぎれもなく、霊の躍動とともに、開始されたのだ。資本は貨幣に隠された死の原理を利用しながら、その死の断片をまるで生命のように増殖させる。霊は生命の原理であると同時に、死者のものでもある。(中略)
そして、バイオテクノロジーと脳生理学と全面化された市場経済の私たちの現代にあって、その霊はふたたび、新しい変態をとげつつある。いまや、大地、貨幣、情報についで霊こそが人間にとっての「第四の自然」となりつつある。だから、いま私たちにもっとも必要なのは、新しい「霊の資本論」の出現ではあるまいか。”

ー  1996年『純粋な自然の贈与』中沢新一

これと結びつくように、河合隼雄さんと小川洋子さんの対談本『生きるとは、自分の物語をつくること』のなかで小川さんの書かれた小説「博士の愛した数式」についてこんな風に語られてもいた。

小川 魂というのは、文学で説明しようとしても壮大な取り組みになりますけれど、数字を使えば美しく説明できるのが面白いですね。
河合 だけど、心理学の世界では、魂という言葉を出したら、アウトです。
小川 そうなんですか。
河合 非科学的だと批判されますから。僕がスイスから日本へ帰って来たのは1965年ですが、その後15年ぐらいは学会では魂と言う言葉は一回も言わなかったんです。言うたら誰も僕の言うことを聞かなくなるだろうと分かりました。だんだん、そろそろ言うてもいいかな、というように周りも変わってきて、1980年ぐらいに「今日は一遍、変な話をします」言って魂の話をしたのを覚えてますよ。
(中略)
小川 それで、その魂を触れあわせるような人間関係を作ろうというとき、大事なのは、お互いの限りある人生なんだ、必ず死ぬもの同士なんだという一点を共有しあっていることだと先生もお書きになっていますね。
河合 やさしさの根本は死ぬ覚悟だと書いてます。やっぱりお互い死んでゆくことが分かっていたら、大分違います。まあ大体忘れているんですよ。みんなね。
(中略)
小川 あなたも死ぬ、私も死ぬ、ということを日々共有していられれば、お互いが尊重しあえる。相手のマイナス面も含めて受け入れられる。
河合 それで、そういう観点から見たら、80分も80年も変わらない。
小川 永遠を感じさせる、至福の時というのは、そうして実現するんですね。
河合 そのひとときが永遠につながる時間なんです。

ー 「生きるとは、自分の物語をつくること」小川洋子・河合隼雄

 

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「魂」の存在はあいまいで、どこまでいってもその在りかに手を触れることもできなければ目にして確認するにも至らない。

けれどそういったところ(死にゆくものや、すでに形がないもの、霊という不確かな存在)に意識を向けた時、それこそ物差しや天秤では計りえない物語や自然からの贈与がふつふつと湧き上がってくるのだろうなぁと。

中沢さんの提言から20年。
人々の価値観が「霊の資本論」に向かっていく光景って実現したらどんなだろうと思いを巡らせる。もしかしたらすでに至るところでぷちぷちと、小さな芽を伸ばし始めていたりするのだろうかな?

 

全体的にぼやぼやとした散らかし放題のとりとめごと。

わたしは「魂」や「霊」の活発な流動に、今後しばらく注目してみようと思ったりしてみたのでありました。

 

関連したりしなかったり。。
両義的思考の豊かさと危うさ|紡ぎ、継ぐ
ウォールデン・チミケップ、湖の記憶|紡ぎ、継ぐ
見ることをやめて、空想力を育む。|紡ぎ、継ぐ

 

 

それではこの辺で。

中條 美咲