ルーシー・リーが隠し持つ、鉄の拳と手ごわさと。

GW中に訪れた、茨城県陶芸美術館で開催中の『没後20年  ルーシー・リー展』について書きたい気持ちを募らせたまま、時間は経過。

彼女の生み出した作品から放たれている気高さであったり、彼女自身が持ち合わせている魅力について語るには知らないことが多すぎて、もう既に亡き人になってしまっているけれど、もっと手応えを持って彼女について知りたくなってしまった。
図録をじっくり眺める傍ら、ルーシーの人柄や生きていた時代背景、彼女を取り巻く人々や環境について理解が深まる一冊を読んだ。

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                        画像:本書「Lucie Rie」より

「何のためにそうしているの?」、ルーシー先生にそう問いかけられると、誰もが素顔をさらけださずにはいられなかった。先生は洞察力と直感力に優れ、自分をしっかりと持ったまっすぐな女性で、生徒たちは、彼女に干渉されたり、自分の考えを押し付けられたりしていると感じたことは1度もなかった。

ー 「ルーシー先生との思い出」キャロライン・ホワイマン

作陶をするときの彼女は、まるで聖杯でも作っているかのように穏やかな表情をしていた。陶芸は彼女の情熱の対象でもあり、人生そのものだった。そしてボタン作りは生活の手段だった。食料の調達も私の役目で、よくチャーチ・ストリートの市場まで買い物に行ったものだ。コーヒー豆はいつも最高のものと決まっていた。

ー 「ボタン作り、すべてはここから始まった」モニカ・キンレイ

「65年もやっていれば、どうすればいいか自然とわかるものよ」
そんな境地に達するにはまだまだ時間がかかるな。そう思ったのを覚えている。(中略)
ルーシーは「これをしなさい」とか「こういうふうにしなさい」とは決していわず、技法を教えてくれたりすることもなかった。自分で見つけ出しなさい、というのが一貫した彼女のやり方だった。

ー「最後の生徒」マックス・マイヤー

ルーシーからは、まるで何か大きな力や、しんとした静けさのようなものが放たれているようだった。きっとそれが、私たちを畏れさせたものの正体に違いない。作品に対する長くて仰々しいほめ言葉も場違いなような気がして、口にするのをためらわれた。また、後年にはその作品に莫大な値段がつけられるようになったが、そのことは彼女が良しとするもの、あるいは目標に掲げていたものからはあまりにもかけ離れているように感じられた。
(中略)ルーシーに備わったものが何であれ、まったく同じ性質を彼女の作品の中にも見て取ることができると、わたしは考える。あるものは思いがけない色彩でもって光を放ち、またあるものはこだわりぬいた釉が特徴的だ。そして多くは、とびきりの優雅さをたたえ、それでいて決して派手ではない。流行や気取りといったものとも無縁だ。ルーシー・リーという人間を表すのにもっともふさわしい言葉、それは「高潔」かもしれない。

ー 「高潔ということ」デヴィッド・アッテンボロー

本書には、生前ルーシー・リーと直に関わりをもって生きてきた人々の言葉がふんだんに詰まっている。それは彼女の教え子や仕事仲間、作品の熱心なファンや評論家と様々な立ち位置から垣間見えるルーシー・リーというひとりの陶芸家のあらゆる一面ばかりだった。

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                        画像:本書「Lucie Rie」より

どんなに多くの人々が、彼女の人間的魅力やその作品について語ったところで、おそらく彼女はそんなことを求めたりはしなかったんだろう。
W.A.イズメイの「収集の喜び」という文章の中には、50年代初め、ルーシーの器は7ポンドに満たない値段で、60年代後半に入ると2桁は当たり前になり、彼女は自らの「高価な器」のことをいよいよ申し訳なさそうに語るようになった。とあった。

1940年代、ハンス・コパーと共にカップとソーサーをつくる「反復作業」はもっぱら生活のためで昼も夜もキャベツばかりを食べる「キャベツの日々」でお金はなかった。とも書かれている。

「ハンスは正真正銘の芸術家だけど、わたしはただの陶芸家よ。」
ルーシーは自分の教師としての能力に自信がなかったようだが、生徒たちからは「ベルベットの手袋の下には鉄の拳を隠している」と畏れられていた。また彼女は、ハンスが生徒たちにする話を聞くのをひそかな楽しみとしていた。

ー 「陶芸家ルーシー・リーの生涯」シリル・フランケル

今現在、ルーシー・リーの生み出したうつわたちがどのような評価で、市場に出回っているのかそれほど細かくはわからないけれど、手に入らない今となっては一枚数十万は当たり前かもしれない。これからさらに年月を重ね、彼女の評価が高まれば高まるほど、金額はあっという間に釣りあがっていくことも十分にあり得る。当時、イギリスのデパートで数千円で売られていたものは、少なくとも観賞用ではなく食卓用に、気に入って自分たちの作品を手にしてくれる人々に向けて作られたものだとわたしは思う。そこには彼女のことを必要以上に崇める視線もなければ、コミュニケーションは対等、もしくはルーシーたちの方がずーっと格下で、気楽なものだったろう。

金額が徐々につり上がり、自身への評価が高まったからといって、それはルーシー自身の満足感につながるわけではなく、本人は最初から最後まで、一貫して市場や大衆の求めるものやそこから伝わる評価などとは距離を置いて、「自分が正しいと思ったことだけ」を作品に反映させてきたのだと思う。それに加え作品に対する執筆依頼について「私は器を作るだけ」といっさいの執筆を断ったというエピソードからも、ルーシー・リーの芯の強さ(手ごわさ)と全き陶芸家であることをシンプルに感じた。

茨城県陶芸美術館は、GW中の陶炎祭の最中ながら、ひっそりと空いていた。

どれだけじっくり時間をかけて眺めていても、後ろから圧力を感じることもなければ、気にいった作品を目にして存分に興奮することもできる。

彼女が作陶を始めた1920年代のウィーンは何と言っても装飾的で象徴性に重きを置いたオブジェがもてはやされるような時代。2015年の今目にしても少しも古びていないどころか洗練され尽くしている上、見ているだけでもわくわくしてしまうような作品を生で見られるというのはとても幸福なこと。(本当のことを言えばやっぱり手にしてみたいけれど…)

どちらにしてもこんな機会はそう多くないので、せっかくであれば是非現地に足を運んで彼女の作品を直に見て感じてもらいたい。

茨城県陶芸美術館では6/21まで開催中で、その後、千葉市、姫路市、郡山市、静岡市美術館と1年かけて、ゆっくり巡回していくようです。

わたしはこの通り、すっかりルーシー・リーという女性に心底惚れ込んでしまいました。

 

それではこの辺で。

中條 美咲