頭の中のぐらぐらに目を凝らして見ていると・・・焦点は揺らめいて、気持ち悪くなったりもする。
春という漠然とした不安定を抱えて、今年もまた、桜の木の下に立ち尽くす時が来た。
「悲しみよこんにちは」。なんてステキなタイトルだろう。春にぴったりのこの一節に想いを巡らせて、悲しみを直視する。
悲しみの正体は、悲しみの目撃、体験による感情の芽生なのか、はたまた相手をいとおしみ、あわれむ眼差しの気持ちなのか・・・
どちらもわたし発でありながら、持ち合わせている要素がちがう。
相手に向けられた悲しみの眼差しは、やさしくてあたたかいものであってほしい。自分の中で生み出された悲しみの反射は、時に人を不安定に駆り立てる。
想い合うこと、眼差しを向けるやりとりに、悲しみは昇華され、やさしさの小さな芽生に変わる。
無理のないやさしさで、補い合ってゆくことができたなら、それはとってもしあわせなこと。
与える喜びも、受け取る楽しみも、ささやかであればあるほどに。
ルミネのキャッチコピー「恋は奇跡。愛は意思。」
引用元:LUMINE MAGAZINE
悲しみを直視するには耐えられないうちは、しなくてもいい。
いずれその日が来たら、悲しみを見つめて、受け止めて、ちがうかたちで愛していけばいい。
愛していくということは止まることを知らず、愛し続けることでしか、愛の実証はできない。
自分自身が意思あるいは意志を持って、目の前に広がる多くを受け入れ、愛すると決めたならば、母なる大地、乳なる海のように、たくさんのいのちを生み育てることにつながっていく。
それは喜びでもあり、悲しみでもあり、心が満たされ、安心していくということ。
「悲しみよこんにちは。」笑顔で迎え入れられるその日まで、この悲しみは心の中であたため続ける。
ずっと気になっては手にとって、その都度読むには至らずに。
そろそろ読んでみようかな。今更ではあるけれど。
それではこの辺で。
中條 美咲