かぐや姫、求められることの悲しさ。

先日、劇場公開ぶりにテレビで公開された「かぐや姫の物語」を中盤から見はじめて、終盤に向かうにつれて悲しくてたまらない気持ちになった。

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劇場では2回見て、それからしばらく時間が経っていたわけなのだけど、以前とはまったく違う気持ちで見ている自分がそこにはいて、それがなんなのか観ていく中で考えていた。

かぐや姫の気持ちに共感しているとか、感情移入しているとも少し違う。それなのにどうしてこんなに悲しくなるのか不思議な気持ちだった。

 

かぐや姫は求められた。多くの人に求められた。

姫の幸せを心から願った翁は、猪突猛進な様子で都に移り住み、華やかな暮らしと、それに見合った行儀作法を姫に身につけさせ、年頃になる頃には、やんごとなき見合い相手を募っては此処ぞとばかりに張り切っていた。

育ての親も生みの親も、子供の幸せを願う気持ちに嘘はない。
まっすぐな翁の願いはそれはもう、姫一人では受け止めきれないほどに膨らんでいた。
姫の人生=翁の人生という程に、翁は姫の人生に自分自身の人生を捧げていた。

そんな中、嫗はいつまでも姫の気持ちに寄り添い、受け止め、見守り続けていてくれた。
それはほんとうに温かい眼差しで嫗の存在がどれ程姫の拠り所になっていたことか。

 

それでも姫はいつしか誰に対しても心を開くことをしなくなっていった。
「わたしのせいでみんなが不幸になっていく」と思うほどに気付いたら姫はせかいに対して心を閉ざし切っていた。

鳥虫獣草木花。大好きだった自然を前にして、あんなに生き生きと豊かに笑い、泣き、生きていた姫の姿はもう殆ど見受けられず、ひっそりと日々が過ぎてゆくことを傍観するだけでしかいられないその姿は憐れでいたたまれなかった。

嫗は受け止めてはくれたかもしれないけれど、受け止められることの悲しさもそこにはあった。

 

「生きてる手応えがあればなんでもない。」
ある時、帝の求婚をきっかけに、かぐや姫は自分が過去に罪を犯して月世界から地上に降ろされたことを悟ることになった。それと同時に、次の満月の夜には月から迎えが来ることも。

今更何を思っても仕方がないと知っていながらも、姫は地球で生きる意味を痛烈に自覚することになる。

捨丸とともに空中を溢れ出すエネルギーで飛翔し、「生きている手応えがあればそれでいい」ということに気づく。と同時にここではないどこかなどもはやあり得ずに、月から逃げることももうできないと己の宿命を受け入れる。

月からの迎えの場面は完全に引き離された描写だった。見た人の多くが「天人の音楽」に対して大きな違和感を感じてそればかりが特出して頭に残ってしまうのも無理はない。そこで目にするものは完全なる別世界の出来事なのだから。

唯一子供達のわらべ歌によってほんの僅かに引き戻されながらも月の力には叶うすべもなく、かぐや姫は月へ還っていった。

姫を乗せた御一行の遥か彼方には青色に輝く地球の姿が残るばかりで。

あまりにも残酷で救い難く悲しくて悲しくて仕方がなかった。
生まれたまま、そのままの姿で生きられたらどれ程よかったか。

”このような物語に今日性があるのかどうか、じつのところ、私にはまったくわかりません。しかし少なくとも、このアニメーション映画が見るに値するものとなることは断言できます。”

公式HPの「監督の言葉」にはこのような一節がありました。今日性があるのかどうかわからないと、この時高畑監督はおっしゃっていますが、確信的にこの物語は” 今日性 ”のある物語だと感じます。
現代社会の中で「生きている手応え」を取り上げられながら育った子供たちそのものでもあり、子供や相手の人生に、自分自身の人生をそのまま上乗せしてしまう多くの親や、人々の姿でもあり、そういった光景は恐らくいつの時代でも、断ち切ることのできない繋がりとして人間の業であり宿命でもあるなぁと。。

”まわれまわれまわれ”と輪廻してつながって続いていき、外へ求めながらもこの輪廻から簡単に逃れることはできず。

” 待つとし聞かば今帰り来む ”(あなたが待っていると聞いたなら、今すぐにでも帰って来ましょう。)と、いつまでも繋がりは途切れずに。

 

かぐや姫がそんな輪廻の中、一瞬だけでも捨丸とともに「飛翔」することができてよかったなぁと思います。
この物語が描かれた当時は、きっと現在以上にそういった繋がりと輪廻で雁字搦めの時代だったのかもしれないし。それは希望であると同時に重たい重石のようでもあり。

受け入れ、受け流し、解き放つ。その難しさ。

 

改めて、肝に銘じる作品です。

    

それではこの辺で。

中條 美咲