物語は必ずしも直線方向には出来ていない。
というよりもむしろ、直線方向ではない螺旋的な混沌の中からこそ、生まれ得るものなのではないかしら。・・・と感じた。
先日B&Bで行われた「ケルトと日本 その装飾的思考と神々」というイベントで、作家・編集者の畑中章宏さんが進行役として多摩美の教授をされている鶴岡真弓先生のお話を伺った。
アイルランドやスコットランド、ウェールズを中心とする地域で形成された「ケルト」という文化が産み出した一冊の書物は1000年経っても古びることがなく、” 全き書物 ーTHE BOOK ”として今でも世界中の多くの人々に大切に読み継がれているそうだ。
彼女のお話は物語と同じように何度もなんども螺旋的なうねりがあって途切れることなく回転していき、徐々に徐々に深まっていくので聞いているだけで目が回って船酔いを起こし、三半規管の均衡を損なった動物のようにその渦の中に巻き込まれていくこととなった。
それは必ずしも完璧なものだけではなく。呆気にとられるほど緩急に富んだ内容で惚けてしまう。
あっという間に聞くものの心を鷲掴みにしてしまう彼女のなかに渦巻くものはまさにそんな” 混沌の渦 ”だったりもするのだろうか。
日本人も長らくの間、” 季節は巡り、大地は揺れ動く”という環境と共に生きてきた。
「巡る」ということを考えてみればそれはまさに循環であって螺旋であって、球体を縁取るように永遠と続いていくスパイラルの現象だ。
そして螺旋的な混沌を地盤にもったわたしたちも、かつては自らの「反転力」を持ち合わせていたそうだ。それが ” おわりからはじまる はじめもおわりもない ”という概念を指すそうだ。
普段は生者が主役の生活の中で死者が主役になるのがハロウィンであったり。
江戸時代頃までは各々に携えていた「反転力」も、徐々に集団的に、そういった感性は失われてしまい、今私たちに必要なのは「集団的反転力です。」なんていうお話になったりしつつ…。
個人的には、ここ数年のハロウィンの馴染み方を見ていると、根底のところでは今でも仮面であったり死者であったり、” 奇なるもの” を求めてしまう性質を少なからず無意識に持ち合わせているのかもしれないなぁと感じたりもした。
中でも印象的だったのは「文字」というのは本来は刻まれるもので、何に刻むかというと動物の皮や骨。そこに刻印を残したのが始まりであって、刻み込む行為自体が装飾と同じで儀式的な行動そのものだったということ。そして、「アミニズム」とはそこに霊魂が宿っているという考え方以前に、そこにある自然を認知し”共感 ”をすることによって、そこから見えてくるもの・感じるものがアミニズムになっていくというお話だった。
「自分たちの魂を震わせれば大地も静まるかもしれない。」など、鶴岡真弓さんの発言は度々魔女的で恐ろしくもあり、もっともっとその感覚の生まれてくるところに迫ってみたいという感覚に襲われた。
本当に有意義な体験だった。
ケルトとアイヌ、ケルトと日本。
鶴岡先生が説いている、” ユーロアジアを跨ぐ両耳のような存在として。”自然とそれらはつながっていたのだろうし、これからまた、その繋がりを明確なものとして回復していけるといいなと思う。
そのではこの辺で。
中條 美咲