自分探しのエソラゴト。

人と話すときの自分。人と話さないときの自分。部屋に一人きりのときの自分。家族や恋人と一緒にいるときの自分。

思春期の頃はよく、本当の自分は何処にある?なんて考えてみては、これもちがう、あれも違う。本当のわたしが出せるのはここじゃない、ここしかない!なんていう思い込みを、うんざりする程繰り返していた。
だれも本当の自分など分かってくれない。きっと伝わらないだろう。変わっていると思われたくないからそれらしく辻褄を合わせておこう。・・・・頻度は減っても、今でも時折そんな妄想にとらわれては、借り物の言葉を発してみたり振る舞ってみたりして、そんなことをするくらいなら、何も言わずに微笑んでいるほうがマシだった。なんて、ちょっとした後悔の念にとらわれたりしている。

名付けて「本当の自分探しのエソラゴト。」

 

先週Eテレで放送された、〈戦後史証言プロジェクト 日本人は何を目指してきたのか〉第5回 吉本隆明さんの回がとても印象に残っている。

吉本さんは言葉についての根幹は「沈黙にある」という考えを編み出していた。

一本の木に例えると土からにょきっと顔を出し、たくさんの葉っぱや花をつける。どんなに美しい花や実をつけたとしても、それは一本の木の目に見える表層でしかない。誰かに対して発した言葉が、どれほど素晴らしいものだと多くの人の心を捉えたとしても、その言葉自体は表層。そこから地中に延びている根っこの部分は誰の目に留まることもない。

そして言葉の根幹はその根っこにあたる。誰の目にも留まらず、注目もされず、静かに静かに張り巡らせていく。

言葉の根幹は「沈黙にある」。という発見。

考えてみると言葉に限らず万物の根源であり根幹は、きっとそんな風に誰の目にも触れない深い深い闇の中の沈黙がもとになっているのだろう。

こんなに自分自身の足下に根を張っていたことなのに、言葉でさえも枝を伸ばして花や実をつけることばかりに躍起になっていて、その存在に気付かず無自覚だった。

誰かと話をして生じる「なんか違う。」や、「そうだけどそうじゃない。」のもやもやの正体はここにあり。

どんな風に色づけをして本当らしい自分を演出してみても、根幹が沈黙じゃ、太刀打ち出来ない。

 

でも言葉の根っこにある沈黙だけは「本当の自分」を知っている。

誰にも伝わらないようでいて、沈黙はあらゆる仕草や間となって、勝手に勝手に伝わっていく。

このあと(17日0時から)再放送があるようなので気になる方は見てみて下さい。とっても為になります。そして、数年前に糸井さんがこのことについて書かれたダーリンコラムも。

ほぼ日刊イトイ新聞内では「吉本隆明の183講演」というメニューを開設され、吉本さんが生前に行なっていた講演テープを誰でも聞けるように無料で順次公開されている。
それは生前の吉本さんの強い希望であって、その想いを今後に伝えていきたいと願う糸井さんをはじめとする人々によって実現されている。

ひとりの人間の持つ言葉の力とその根源にあるものは、こんな風にして次の世代、また次の世代へと受け継がれていく。こういう活動がたくさん広まっていく姿が豊かな社会につながっているようにわたしは思う。

言葉によって伝え、学び、栄えることができたわたしたちは、その言葉の持つ力や根源を自覚して、これからも大切に言葉を借りながら、そういった本質を伝えていく責任があるのだろう。

そうすれば自ずと、本当の自分なるものは、それぞれの人の中に顔を出す。

 
  

それではこの辺で。

中條 美咲