ウォールデン・チミケップ、湖の記憶

北海道の網走郡津別町にチミケップ湖という名の湖がある。アイヌ語で「崖を破って水が流れるところ」という意味を持つらしい。

北海道特有の、広くてどこまでも続いている幹線道路から舗装のされていないでこぼこ一本道に入り込み、ひたすら進む。カーナビも途中から居場所がわからなくなったように、その周辺をグルグル惑いはじめ少しずつ不安になる。

周囲からどれくらい森の奥へ入り込んでいったのだろう。
ようやく木々の間から西日が差し込み、湖の気配が感じ取れた時には心底ほっとして、安心感に包まれたのをよく覚えている。

その湖畔には、一軒の小さなホテルが佇んでいる。

湖の名前にちなんでだろう。その名もまた「チミケップホテル」。とても愛らしくて、一度聞いたら記憶のどこかに留めてしまいそうな、暗示的な響きの名前だ。

 

3年程前。雑誌で見つけたその存在がとても気になり、北海道を旅行した際、日程を無理やり調節してそのホテルに宿泊した。
たった一泊の滞在ではあったけれど、その時の記憶は不思議と時間の流れを忘れたように時折ぽわんと顔を出す。

そうして今回お正月休みを利用して手をつけた一冊の本を読みながら、わたしはまたチミケップ湖を取り巻くあの森のことを考えている。

森の生活  WALDEN, OR LIFE IN THE WOODS」著:ヘンリー・D・ソロー


この本は、1854年。今から160年も前に書かれたということに、とても驚いた。
ヘンリー・デイヴィット・ソローというコンコード生まれの著者は28才からの2年間、人里離れた森の中・ウォールデン湖のほとりに自分で家を作り、完全なる自給自足の生活を行なった。
「森の生活」ではその暮らしを通して著者自身が体験した「ひとが生きて、暮らしていくこと」について。心と身体その全てで感じたこと、考えられたことが事細かに記されている。

あまりにも彼の感度は鋭く跳躍していて、所々で少しばかり距離を置くように読み進めていったのだけど、この時彼が森で送った生活から学ぶことはとても多い。

ただ、ここに書かれている内容、彼が森の生活で感じたことを本当の意味で理解するには程遠い。そして、彼は少しばかり(当時の)文明社会で生きる人々を批判し過ぎている。その点も含めると多くの現代人にとって、今在る暮らし方と彼の実践する生き方は到底かけ離れている。

わたしはこのような森での暮らしぶりに強い憧れを抱く一方で、森で暮らすことが良いのか?文明社会とは完全に縁を切らなくちゃ彼のような価値観を育てることは出来ないのか?・・・敢えて著者と向き合うかたちで読み進めていった。

印象的な部分をいくつか引用してみる。

”ふだんの夜でも、森はたいていの人が思っているよりもっと暗い。
いつだろうと、森のなかで道に迷うのは、驚くべき、記憶すべき、そして価値ある経験だ。迷うことによってはじめて、いいかえれば世界を見失うことによってはじめて、ぼくらは自分というものを見つけはじめ、自分がどこにいるのかとか、ぼくらがもっているいろいろな関係の無限の広がりとかを悟るのだ。”

”ぼくは自分自身のなかに、ほとんどの人と同じようにより高いいわゆる精神生活を求める本能と、原始的でまったく野蛮な生活を求める本能の両方を見つけ出した。それはいまでも変わらず、その両方をだいじにしている。善といういうものに劣らず、野生というものを愛しているのだ。”

ある人にとっては真理であり、宗教であり、耳が痛く、100年以上経った今でも普遍的な一冊なのだろう。

文明社会や倫理的思考の発達みたいなものによって、忘れ去られようとしていた ”野生の本能” などを、やっぱり取り戻したい!と感じる人が出てくるのも不思議ではない。

そして” 善 ”と” 野生 ”は、どちらとも自分たちの根源にあるということ。それ以外にもあらゆる矛盾を受け入れ、自覚して生きていくこと。” その両方をだいじに ”していくことが、彼の言うようにとっても大事。

口でいうのは簡単だけど、実際の生き方でそのバランスをとるのは相当難しい。そして自分ではうまく判断がつかないから、時折向かい側にいる彼や彼女との対話が必要なんだと思う。

「森の生活」を読んでいて、頭の片隅ではすっかりこの本の舞台であるマサチューセッツ州コンコードの森にあるウォールデン湖と数年前に訪れた北海道、津別町のチミケップ湖とが重なってよみがえる。

ウォールデン湖とチミケップ湖は見えないなにか(例えば湖の底、すべての人々が忘れ去ってしまった記憶の中)でひっそりと互いに導き合ってつながっているんじゃないかしら・・・。と、物語を読み進める一方でわたしのそこはかとない妄想もじんわり広まってゆくのでありました。

むかしむかし、大地が動き崖の切りたつ割れ目から、一気に水が流れ込み深くて大きな水たまりができました。

いつ頃までかは割れ目は開いたまま、そとの世界と通じていましたが、今ではすっかり閉ざされ、守られ、その湖には古くから伝わる膨大な記憶が残ったまま、湖底静かに眠っています。

一方をウォールデン、もう一方はチミケップ。
その土地に暮らす人々からは、海や森、空や大地とは一線を置いて、不思議な存在として言い伝えられました。

循環し、流れ、変化していく自然の中で彼らだけはいつまでも、その姿を留めているのです。 …

 

北海道はいまは雪。

チミケップ湖はすっかり凍り付き、真っ暗な闇の中には一軒のホテルがいまも当時のままひっそりと暖炉の明かりを灯して佇んでいるんだろう。

たった一組の来客を丁寧にもてなしてくれたあのホテルとあの森に、どこかでもう一度訪ねてみたい。

チミケップホテル

少しだけ関連:風の谷のナウシカ 〜物語の断章を伝承するもの〜|紡ぎ、継ぐ

 

それではこの辺で。

中條 美咲