メリークリスマス。
もうクリスマスの朝を楽しみにする年頃ではないけれど、子ども達の枕元にはたくさんの小包が届いただろうか。
そんなことを思う、12月25日。
今年を振り返ってのなにかしらを、きちんと記そうとすればするほどうまくまとまらず、書きかけの「 」はたまっていくばかり。
しかたがないのでお手紙かいた、さっきの手紙のご用事なあに?。。
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今年は人をはじめ、本や場所や考え方。小さいけれど大きな出会いをいくつか経験した。いままでもそういったことは経験していたかもしれないけれど、このブログのおかげもあってより自覚のある一年だった。
そんな中、表題について書きたくなった。
以前 出会いを続けていくことは有り難いの連続 |紡ぎ、継ぐ ということを書いた。
そこをさらに深めていった先になにがあるかなと考えていた。
そして深めていった先でご対面。
その場所で待っていたのは「もう一度、会いたくなるひと。」
出会うこと自体は、がむしゃらにでもなろうとすれば実現可能。
何かしらの偶然、周囲の計らい、etc… あらゆるきっかけがあってわりと自然。
それに比べると二度目以降は自然でなくなる。それは意思であり、興味や関心、「また会いたい。」と思わせるなにかが不可欠。
・・・うまい表現が見当たらないのが残念だけど、二度目の壁は想像以上に険しい。
必死の思いで二度目の壁を、歯を食いしばって達成しても三度目はより一層、簡単じゃない。
それはまるでロッククライミングみたいに険しくて足が竦んでわくわくする。
『スプートニクの恋人』で、22才のすみれに訪れる生まれて初めての恋のように。
”それは行く手のかたちあるものを残らずなぎ倒し、片端から空に巻き上げ、理不尽に引きちぎり、完膚なきまでに叩きつぶした。・・・みごとに記念碑的な恋だった。”
—村上春樹『スプートニクの恋人』より
前にも一度書いたけれど、どうして彼の小説を何度も読み返したくなるかと言えば、そこに登場する女性たちの圧倒的なまでに不条理で独善的で偏っている様がとてつもなく魅力的で、だからまた会いたいと思ってしまう。
村上作品に生きる女性たち|紡ぎ、継ぐ
多少の毒があることを承知の上でその中に分け入ってみたいと思ってしまうくらい、人間は不条理な出来事を心のどこかで求めていたりもするかもしれない。
それが自分以外の誰かと対面した時に、巻き起こる相手かどうかというのが大きな違い。
上手い口実が見当たらなくても、なぜ会いたいのか説明がつかなくても。会えば会ったでしばらくバランスが乱れもするかもしれないけれど、やっぱりまた会いたいひと。
それってすごく魅力的。
薬にも毒にもなりうる、なにかを持ったそんな人間になりたい。と同時に、そういうひとに出会い続けたい。と、ロッククライミングを体験したことのないわたしは、思う。
それではこの辺で。
中條 美咲