すべては商品に成り代わって

” 商品 ”という概念が生まれたのは、遡るといつ頃のことだろう。

ウィキペディアには「商品とは経済活動において生産・流通・交換される物財のことである。」と書かれていた。

経済活動の為につくられたり・人と人の間をつないだり・交換されるすべての物、又はサービス。

それまでは自然の中で周辺の人たちで分け合っていた自然界の多くのもの、あらたに生み出され続けるあらゆるものが商品として世の中を循環している。

今の暮らしに欠かせない” 経済 ” 。どこまでが妥当で、何処からが過剰なのか。だんだんだんだんわからなくなっていく。

これくらいが妥当だよね。最低でもこのくらい。
基準はそれこそ千差万別。

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・・・彼はかつて「持てるものは持たざる者に与える義務がある。」といった。

持てる者と持たざる者の差はじんわりじんわり開いていく。

正しいという漢字は「一つの場所に止まる」と書く。自分の良心に従って、一つの場所に止まる。そこに立場や主義などない。唯一絶対の根拠は私の” 良心 ”。

人間の欲望には際限がない。(欲望あっての進化と発展。欲望の否定は輝かしい未来の否定では?)

私は進歩と発展を否定してはいない。調和の土俵こそが必要だ。

 

しかし感情論ではどうにもならないこともある・・・。次郎はその感情を鎮めることができずにいた。

そしてどこまでも冷静に、ひとりの英国紳士はそんな彼をたしなめた。

狂熱と喧騒がすべてを奪い、本質を見失わせる
喧騒から遠く離れて…心は開いたまま未来へ思いを巡らせる
誰かが戯言を言えば、勇気をもって指摘する。

栄果は続かない。すべてはいつか滅ぶ。何を諦め、何を諦めないのか選択肢はそれだけだ。あとは”神のみぞ知る”僕はそう思う。

これは戦争直前のお話。結果として次郎の力ではどうすることも出来ずに国は一丸となってその渦中に突入していく。

はじめはあらゆることをコントロールしていると思えていても、最後まで手綱を離さずに操っていくことは難しい。

ある段階まで動き始めたらあとは、神のみぞ知る。

 

どこまでがほんとうの出来事で、どこからが変化変容して作り上げられた物語なのかはわからない。

そして、感情論だけでは(彼らは食えたかもしれないけれど)飯は食えない。

 

いろんな声は止むことがなく、わたしの” 正しい ”はどこにあるんだろうと憂いて空をみる。

心は開いたまま、未来へ思いを巡らせる。

 

結局のところ、ケセラセラ。 なるようになる 先のことなど分からない ケセラセラ。 の精神がとっても必要とされる。家族をつくるということは、こういうことなんだと。声をあげて何度も笑った。夫婦や家族円満の秘訣は?ときかれたら、『となりの山田くん』に詰まっていますと 伝えよう。

激動はドラマチックでも、求め続けるのはどこまでも日常。

「正義」や「正論」に対する苦手意識がずーっとあり続けてここまできたけれど、白洲次郎のドラマを観て ” 正しさ ”に対する捉え方が一変。

どちらにしても、ここに描かれる次郎さんと正子さんは格好良過ぎる。一本ばすっと貫き通されていて、多くのものに翻弄されつづけるこの脳みそにはそれはそれは痺れるばかりでありました。

 

翻弄されて過剰なのは自分かもしれないし。

しなやかな正しさを、一所に止まる勇気を、おおらかな精神を、身につけたいと感じる今日この頃です。

 

それではこの辺で。

中條 美咲