つい最近、世界中で “死の選択 ” について様々な議論が巻き起こった。
高校生2年生の時に、全国読書体験記コンクールで『死の選択』という作文を書き、ひとつの賞を頂いた。
賞を頂いたことで、周りからの(一時的)評価の変化などもあり、嬉しい反面複雑に考えさせられたことをよく覚えている。
今考えるとこれではまだ「読書体験記」とは言えないけれど。一冊の本で感じた生きる事と死ぬ事について、当時17歳の自分が書いた作文をここに載せてみようと思う。
(原稿用紙5枚分あり、粗削りでとても長く感じるでしょう…)
— 死の選択 —
私たち人間は、〈死〉を自ら選択することができるのだろうか…。
そもそも人間にとっての〈生〉と〈死〉とは一体なんなのだろう。私たちは自分の意志とはまったく関係なく、この世に〈生〉を受けた。「生まれたい!」と思って生まれた人など一人もいない。つまり〈生〉には選択権がないという事になる。しかし、私たちは自分自身で〈死ぬ〉ことが可能である。しかし法律で自ら死を選択する事、つまり安楽死は認められていない。フランスに住む十九歳の青年、ヴァンサン・アンベールはトラック事故に巻き込まれ、九ヶ月間の昏睡状態を経て意識を取り戻した。しかし、意識が戻ったところで彼の脳は相当なダメージを受け、左手の親指と聴覚以外、彼の身体機能はすべて死んでしまっていた。
もうどうしようもなく、僕がいくらがんばってみても無駄なのではないか、と気付いたとき、母さんは、医師たちにこう言ったのだ。
「そっとしておいてやってください。もう助からないんですから、自然に任せてください」すると医師たちは母さんにこう答えたのだという、「いけません、ヴァンサンはあなたの所有物ではありません。彼はもう成人ですよ。決めるのは彼自身です」”成人” !なんという偽善だ!こんな状態でいったいどうやって決断を下せるというのだ?しかるべきときが来れば旅立たなくてはならないというのが自然の摂理だ。それなのにどうして、その期日を引き延ばすための策略をめぐらせなければならないのだろう?どちらにしても、彼らは母さんの言うことさえ聞こうとはしなかった。もっとも身近な人に僕の命について僕の代わりに決断してもらうことが許されないとすれば、いったい誰が決断を下すことができるというのだろうか?…
こうして彼は望まぬ〈生〉を送り続ける事になってしまった。生きる屍となったのだ。
私は今まで、〈生〉と〈死〉を自分で選択する権利はないと思っていた。というより、してはいけないと思った。なぜなら私たちはこの世に産み落とされた以上、生きていかなければならないからだ。それが私たちに与えられた使命なのだからと。それに、人間以外の生物はみな必死で生きている。自ら死を選ぶことなどありえない。しかし、考えようによればヴァンサンは自然の流れに逆らって生かされてしまった。しかも彼は半分死んだ状態で生きている。もし私もヴァンサンと同じようになってしまったら…。考えるだけでも恐ろしい。きっと私も「死にたい」と思うだろう。目も見えない、味もわからない、左手の親指以外まったく動かない身体。それなのに心で感じることはできるのだ。いっそのこと意識を取り戻さないままの方が幸せだったのではないかと思う。自分で何も感じないのだから…しかしヴァンサンはそうではなかった。不幸にも?幸運にも?人間であることに一番大切な心は生きていた。そしていつも傍らには母親が付き添ってくれていた。もう回復する見込みのない息子を見捨てずに、信じ続けていた。しかし彼自身は違った。医師からこれ以上回復する見込みはないと告げられてからの彼は、〈死ぬ〉ことしか考えられなくなった。そして大統領に手紙を書いた、『僕に死ぬ権利をください』という内容の。
私はヴァンサンの母親の気持ちを考えると、とても切なくてたまらなかった。自分の息子が、どんな姿であろうがたった一人の最愛の息子が「死にたい」…と死ぬことしか考えられない程追い詰められてしまっている。しかし自分には傍について手を握ってあげることしかできない。確かに当事者であるヴァンサンが一番辛いだろう。しかし、ヴァンサンと同じくらいかそれ以上にヴァンサンの母親も苦しんだのだと思うと、運命を呪うことしかできないと思った。
結局、ヴァンサンは大統領から死ぬ権利を与えて貰うことはできずに、母親の手によって、あの世へと旅立っていった。そして彼の本の最後にはこう記してあった。
母さんを裁かないでほしい。母さんが僕にしてくれたことは、間違いなく、世界じゅうでもっとも美しい愛の証なのだから。母親であるマリーと延命措置をやめ、塩化カリウムを注射しヴァンサンの心臓を止めた医師のショソイ氏は今も尚裁判にかけられている。もし裁判で有罪となれば、ショソイ医師には終身刑が下る可能性もあるということだ。なぜ?という言い方はおかしいかもしれないが、私はそう問いたくてたまらない。この出来事が殺人と判断されてしまうのは、あまりにもさみしすぎる。こんなにも深い親子の愛を法律で裁くことができるのだろうか…。
題材:「僕に死ぬ権利をください 命の尊厳をもとめて」ヴァンサン・アンベール
この本は2000年にノルマンディーに住む、当時19歳の消防士になる夢を持った青年を取り巻いた現実の事柄について書かれたノンフィクション作品でした。
なぜこの本の感想文を書こうと思ったのか。はっきりとは思い出せませんが、きっとセンセーショナルなタイトルに何かしら感じるものがあったのだと思います。
こういった事柄はこの件にとどまることなく、日本国内でも現実問題としてとてもたくさん起きてしまっているのかもしれません。介護や看病を通して。事故や病気や災害で。いつ自分が当事者になってしまうかもわかりません。
合法の地域であれば個人の尊厳ある死が尊重されて、禁止される多くの地域では罪人として裁かれる。
これについて決着がつく日は簡単には訪れないのかもしれません。
ひとつ言えるのは、いのちは一回の一人の人生で終わりではないということです。
それは巡っていて、ずーっと続いていて息づいています。
先日、中越地震から10年が過ぎた山古志村の人々を追ったドキュメンタリーをみて、そう強く感じました。
家族全員でお墓参りをして、故人を尊ぶ。そのようにしていのちの大切さは親から子、またその子どもへと受け継がれていくということじゃないかなと。劇的でも過剰な演出でもないその日常の光景に、脈々と自分たちの中に息づく ”いのち” に触れた心地になりました。
そのように尊ばれるいのちがあるからこそ、残された人々はそれを大切に守りながら、生きよう強く思うのではないでしょうか。
キレイゴト、かもしれませんが。
そういう風にいのちある限り、わたしはそれを守り受け継いでいければいいなと思います。
それではこの辺で。
中條 美咲