めくるめく、『魯山人の料理王国』

今年の誕生日に一冊の本をいただいた。
ページを開かずに年を越すのもどうかと思い、意を決して扉をひらく。

作者は北大路魯山人。本のタイトルは、『魯山人の料理王国』。

うす白色のペーパーにお行儀よく包まれた、濃緑色の布貼りの本。といっても、2011年に新装復刻されたものだそうで、歴史をまとったような重々しさは見当たらない。

箱入りの本というのは、少し緊張する。

かつての本といえば革張りや活版といった意匠を凝らし、仲間うちの彫り師さんに装丁用の版画を手がけてもらったり、好みの布をあてがったりもしたのだろう。
「これでもか」というこだわりを凝縮し、仕上げにグラシンペーパーの衣をまとって箱におさまり、ようやく完成。

そんな風に贅沢を尽くして、一冊の本はつくられていたのだろう。でもそれは、四半世紀もむかしの話。 続きを読む

わたしと、花々と星々と。

きのう、こんなことを考えた。

一年は12ヶ月で、12月31日の次の日は1月1日。今年は2017年。
2017年12月31日の次の日は、2018年の1月1日になる。
そして2018年1月3日、わたしは29歳・・・・・・になる!

重要なのはわたしが29歳になることではなくって(もちろんそれも大事だけれど)、どうして一年は12ヶ月で13ヶ月でも14ヶ月でも35ヶ月とかでもなくて、12月31日の翌日は1月1日なんだろうということ。

例えば永遠と、12月31日の次の日は13月1日、13月30日、14月1日・・・・・・・
みたいになったら歳の数え方も変わるんだろうって。

ちなみに例えば1年365日という区切りがなかったら、わたし達はどんな風に歳を感じて生きていくんだろう。

どうしようもなさそうなことばかり考えている、そんな28歳の年の瀬。
大人になるどころか、夢見る少女に逆戻りしている場合では、ないハズ。

みんながなんとなく区切りを感じられて、ここで一周、一区切り!
またひとつ歳を重ねるんだって思えることは、人生の充実感、満足感に少なからず寄与しているんだろうなぁ。

今日から少しずつ、日がのびていく。

さいきん時間とか空間とか、歴史性について、(1920年代あたりを中心に)ぼんやりぼんやり考えています。それは昨日お話したハイデガーの『存在と時間』の影響もそうなのだけど、それよりもずっとずっーと、犬養道子さんの『花々と星々と』の影響がふんだんなのです! 続きを読む

忘れてしまった、「いのち」の食べ方

私たちは今年、ハイデガーの『存在と時間』という著作をテーマに、自分たちの”いま”をひもときながらものごとを考える訓練をしています。

今回のお話は、そんな『存在と時間』の関心(気遣い)や、不安についてわたしが考えたまとめです。冬は「食べる」が楽しい季節!飲み過ぎ、食べ過ぎはたまにキズ・・・


5月、味噌を仕込む(日光横川・太一つぁんの店)

”カリブーであれツンドラの木の実であれ、人はその土地に深く関わるほど、そこに生きる他者の生命を、自分自身の中にとり込みたくなるのだろう。そうすることで、よりその土地に属してゆくような気がするのだろう。その行為を止めた時、人の心はその自然から離れてゆく。”

ー『イニュニック[生命]』星野道夫 著

”生きる者と死す者。有機物と無機物。その境とは一体どこにあるのだろう。目の前のスープをすすれば、極北の森に生きたムースの身体は、ゆっくりと僕の中にしみこんでゆく。その時、僕はムースになる。そして、ムースは人になる。次第に興奮のるつぼと化してゆく踊りを見つめながら、村人の営みを取りかこむ、原野の広がりを思っていた。”

ー『イニュニック[生命]』星野道夫 著

”私たちが生きてゆくということは、誰を犠牲にして自分自身が生きのびるのかという、終わりのない日々の選択である。生命体の本質とは、他者を殺して食べることにあるからだ。近代社会の中では見えにくいその約束を、最もストレートに受けとめなければならないのが狩猟民である。約束とは、言いかえれば血の匂いであり、悲しみという言葉に置き換えてもよい。そして、その悲しみの中から生まれたものが古代からの神話なのだろう。”

ー『旅をする木』星野道夫 著

ハイデガーは「存在と時間」から、何かしらの”真理”と呼ばれるものへ迫ろうと試みる。そこから見えてくることは、時間の有限性や存在するための世界という開かれた空間性。有限な時間の先には「死」がある。こうした議論のなかで「食べる」ことは話題に上らない。けれど、「食べる」という行為は、私たちが生きていく基盤の営みでもあるハズで…。 続きを読む

時間のうえを歩いてね

 

「感性と理性のあいだにあるものは何か?」先日、ある方からこんなお題をいただいた。

この間しらずしらず、すでに自分の前を歩く、圧倒的な迫力をもつ大人たちの言葉を受け取るばかりになっていた自分に気がついた。時間が経てば立つほど、わたしは投げられたたくさんのボールたちに埋め尽くされるように、窒息しかけているではないか。拙い出来ばえでも即座に自分の言葉で考えて投げ返さなくちゃいけない。それが健全さの基本の”き”。

受信と発信。入力と出力。

物事は常に往還する動きのなかで生き生きと生かされる。
動きを止めてしまうのは、心にも体にも不健全なんだということにようやく気がついた。

わたしはもう一度、ボールを受け取った自分に向き合いたいと思う。拙い言葉を紡いでいこう。

少しかための文章だけど、彼の問いを受けとったわたしの応答を以下にそのまま引用します。
昭和村のまとめもそうだし、出発点のこの場所に記していきたいことは山ほど溜まってる。

読みながら、一緒に考える足場となれたらいいなぁと、思います。

不完全という完全

Q.「感性と理性の間にあるもの」とは
→ A.   人間的ないとなみ、人間的なふるまい

「何をもって人間的といえるのか?」 続きを読む

具体的に少しずつ。

 

「具体的に少しずつ何かを続けていくことが、大切だと思います。」

思いがけないメッセージとともに、そえられていた一つのことば。

 

はじめたまま放ったらかしにしていたのは、忙しさのせいでもなんでもなくて… 続きを読む

夢と物語と。

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夢を抱き、夢をみて、なにかを越えて、ここまできた。

勇気をだして、やってきてはみたものの、現実のせかいでは夢も物語もそう長く続くわけではなくて、はじめの想像とは違って、うむうむ。。もどかしい日々が続く。 続きを読む

冒険の始めかた、あるいは思考する場所

世の中には知れば知るほど、興味をそそられる人や、関心を掻き立てられる人、ぐーっと掘り下げて対峙してみたくなる相手はいるもので、ハンナ・アーレントは、そんな魅力と謎に満ちた女性のひとり。

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願わくば、徐々に徐々に近づいていき、どこまでも透明なまなざしとして、彼女の眼に映る景色や頭の中で組み立てられる様々な断片に触れてみたかった。そこではどんな日常が、思考が、なされていたのか、どういう現実と、向き合い続けた人生だったのだろうかと。

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触媒、媒介、つながる出口。

とても大きな波がきた。

うねり、うなり、湧き上がり、蠢いて、

いまもまだ、ざわざわ、ぞわぞわ。

鎮まるどころか、ずっと、ずっと。

それはいまなお続いていて、うっすらどこかで触知しあって、

目があい、カチン。

つながるときは、スッとつながり、

掛け違えたままのボタンが掛け直される気配はきはく。

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さいきんのできごと。

気がつくと朝、お布団から出るまでにたくさんの時間を要する季節になりました。
すっかり冬、きょうは立冬です。

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 (紅葉も終わりに差し掛かる那須の山並み)

習慣というところからあまりにも遠ざかってしまったブログの更新ではありますが、
個人的な日々の記録は、9月の頭から細々再開したりもしているのです。 続きを読む

食べるの”闘い”と、生きるという仕方。

降って降って降り続いた雨が上がると、
忘れたつもりで箪笥の奥にしまいこんだ残りの暑さを思い出す。

あぁ、まだ暑くなるのね。つい先日のはずの夏が、やけになつかしく感じます。

気分はすっかり秋なので、おすそ分けしてもらった栗を剥いて栗ごはんをつくりました。

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実家の畑でとれた栗。 続きを読む

単純なしかたの、かたちの、方法としての道すじ。

ことばにしなきゃ欲求がふつふつ湧き上がっていた以前に比べて、

現状は休火山のように、そうした衝動はシーンと静まり返っている。

時折揺れ動く感情は、風に吹かれれば飛ばされてしまうし、

雨が降り続けばしとしとと沈みゆく。

そもそも、たくさんのことばはもうすでにいずれも、見渡す限りに溢れかえっているだけでなく、

気がつくと波にさらわれて大きな海の一部に溶け込む。

 

心地よいだろうか、

ひとつになって、

不安だろうか、

輪郭を見失い……

 

背負いこんだ荷物は、すきで集めたものばかり。

時間の使い方だって、囚われを外せば生き生きと弾み出す。

窮屈に退屈をして小言をする間におばあちゃんにはなりたくないし、

だれかのためを装った言い訳は、だれが見たってお見通し。

 

「ゆく川の流れは絶えずしてしかももとの水にあらず」。

もう十分に、だいじななにかは、いずれのだれかが残しているし、

鮮明で、近ずいて、つい触りたくなることばもあれば、

苔むした森の奥、ひんやり硬く年月を超えた、石のようなことばも佇む。

 

どちらにしてもことばは表面。

それらを通して、はじまる交流。

 

 

意味性も無意味性も総体化してみたい。

にんげんが作り上げたあれこれじゃなく、神さまが与えてくれたものは、手ばなしちゃいけないよって、喫茶店のマスターの受売りだけど、お気に入り。

 

 

”もう一度結びつける”場所

クートラスは”生”が好きだった。どんな醜悪な姿でも生きているものの姿が好きだった。

クートラスは愛情のある視線に見守られていることがいつも必要だった。

クートラスの描く天使は可愛い顔をしてハートを差し出しているエロスである。
優しくて子供のように純朴な、ちょっといたずらっ子っぽい表情で飛んでくる。
それで、油断していると、一瞬のうちに、とてつもなく大きな力に揺るがされ、夜よりも深くて暗いものが身体を包んでしまう。そんな神話の入り口みたいな接吻というのがあるものだ。……

『ロベール・クートラスの思い出』より

静岡県長泉町、ベルナール・ビュフェ美術館にて会期中の企画展、
ロベール・クートラス 〜僕は小さな黄金の手を探す

「僕のご先祖さま」の一枚と出会い、直感的に惹かれた相手。

出会って、対面し、彼と晩年を共にした岸さんの著書を読み、直感は計り知れない共感となりました。

彼の”生”へのこだわり。愛を求めて与えて、使い果たしていくような繊細さ。

残されたカルトやご先祖さまの肖像のなか、クートラスはいつまでも生き続けることができる”永遠性”の居場所を生み出せたのかもしれません。

こんなにも生きることにいのちを使えた彼が、たまらなくいとおしい。