芸術や音楽」カテゴリーアーカイブ

神々とにんげんをつなぐ花

”たとえ明日世界が滅びようと私は今日林檎の木を植える”

ーマルティン・ルター

2013年の9月に出版された、藤原新也さんの『たとえ明日世界が滅びようとも』という本の中で、その言葉を知った。この本が出版された当時、福島第一原発からわずか20キロ圏内の福島県沿岸部の町へと移り住み、汚染された土壌に咲く花を生け続けたひとりの花人がいた。

神々と動植物、にんげんと。
それぞれの関係性や、あわいをつなぐ存在について。
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とびらの前で。哲学入門以前

正月明けのぼやけた頭を、がつんとやられる一冊に出会いました。

今はなき哲学者、川原栄峰さんの著作『哲学入門以前』というものです。
27歳になりたてのわたし自身にむけて、お祝いと激励の気持ちを込めて引用してみます。
ちなみにこの本は、昭和42年11月に発行されたもののようです。

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「見る」ことで遠ざかるもの。

「わたしは見た。」「それを見た。」

「見る」という行為それ自体は、どこまでも自由で、どの程度、どんな見方・受け止め方をしたとしても、誰に文句を言われる筋はないものだと思う。

自分が「見た」のであれば、見たことに変わりはないし、そこから何を感じたり、どんな印象を受け取ってももちろんいい。それこそ「見る」をはじめとした五感はどこまでも開かれたものであってほしいと思う。

けれど同時に、「見た」といってすぐに、一件落着したくないような気持ちになった。

目の前に一枚の絵画がある。

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私たちは、いま目の前にあるこの絵を、どれだけ「見る」ことができているのだろうと、混み合った展覧会場の列に並びながらぼんやり考えた。 続きを読む

自分の感受性くらい…

茨城のり子の有名な詩の一片は、タイトルの通り。

まん丸に追いかけてくるトンコロピーなお月さまや、今にも真っ赤に染まって溶けてしまいそうな夏の日の夕焼け、むせるように肌にまとわりつく湿気を含んだ空気とか、足元に痒みと共に記された幾つかの赤い斑点。

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同じ木は木でも、色も違えば質感も違い、成長の速度、風や光の好み、わしゃわしゃだったりすっきりだったりしゃきーんだったり・・・

そうしたあらゆる自然の要素に、背中を後押しされるように、づんづん・ずんずん。 続きを読む

彼女のまなざしが向かう先。

いよいよ今週末(あと2日!)で会期が終了する「ヘレン・シャルフベックー魂のまなざし」展について記しておこうと思う。

テーブルの上には、展覧会で思わず連れ帰った図録。シャルフベックのまなざしが、じーっとじーっと。こちらを見透かして、どこか遠くへと、その思いを投げ打っている。

ほんのわずか、顎先をキュッと尖らせて・・・

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ことばと白玉と、心地のよい「あお」

沈んだ白玉が浮かび上がるのをすくい上げるように
そこに現れるのは、できたてほやほやの真っ白な「詩」であるような。

浮かんでくるのを心待ちにするのでもなく、
ときおり「ことば」は自らぽこぽこと浮かび上がる。

浮かび上がった「ことば」のひとつひとつを、
丁寧にすくい上げたいという気持ちはゆっくり確実に、育ちつつある。

いつかの「ことば」は
考えて発されるものではなく、あちらからぽこぽこと浮かび上がってくるものだった。

そういうことばは数少なくても、
初めてピアノの鍵盤を指で叩いた子どものように、
変幻自在に躍りだす。

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「聴く」ことの力から生じたうねり。

鷲田清一さんの著書、『「聴く」ことの力 ー臨床哲学試論 』を読んだ。

内容についてはこの後、” なが・なが ”と続いていくとして、本書のなかで音楽のように、どこまででも広がっていくようで、ただそこにとどまり続けているだけのようにも感じられる写真家、植田正治さんの重低的な伴奏写真があることの心地よさ。

なくてもいいけど、あったほうがいいものは、本当に多い。

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モノローグの中で鷲田さんは「哲学はこれまでしゃべりすぎてきた……。」と書かれている。そして、「アカデミックな哲学というものに、漠然と感じてきた ” ひっかかり ” である。」と続く。

まことのことばを知るためにこそ、わたしたちは語ること以上に、聴くことを学ばねばならないということだろうか。くりかえして言えば、わたしがここで考えてみたいとおもうのは、この〈聴く〉ということの意味と力についてなのである。

このようにして、〈聴く〉とはどういうことか、「語る」でも「分析」するのではなく、「聴く」ことをするような哲学のあり方について考えてみたいというところを出発点に、じわじわと話は深まっていく。
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朗読から動き出す ”ものがたり”

i love you  ~

という歌い出しで始まる、トウヤマタケオさんのピアノ伴奏曲に合わせて、その物語は確かに立ち上がり動き出した。

翻訳家・柴田元幸『MONKEY vol.6』刊行記念ツアー

パトリック・マグラア『オマリーとシュウォーツ』。

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柴田さんの朗読の息遣いは荒い。
流暢に文字を追って読んでいくというのではなく、物語の奥までぐーっと入り込み、そのものになって躍動し語り始める。猫背な容姿でひょろりと立ち上がり、鋭く何かを捉えている眼差しからは、恐ろしいような、不気味な空気すら感じられた。 続きを読む

雨のせとうち

雨の瀬戸内は匂い立つ

雨とともに訪れる風を合図に疼いたように揺れ動く

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そのとき「海は荒れている」ではなく

嬉々として うねり 湧き立ち 踊り出す

 

途切れることなく立ち上がり膨らみあっては
どっぷんどっぷん重なり合って

漣が引いていく姿に 目を奪われるばかりか

引き込まれ 飲み込まれ まるごと揺らめき

波の奥に潜む生々しさを感じるばかり

 

晴れて静かな瀬戸内はやさしいけれど

雨の瀬戸内は祭りのように匂い立ち

いのちの何かが湧き上がる

 

静けさと生々しさと

生きている海の気配しか感じることができない私たちは

時折その奥に隠された「匂い」に弄ばれる

 

蛇と蜘蛛

蛇を見たことがあるでしょうか。

薄ら暗い軒下のあたりや、石垣の隙間のようなところにはよく

脱皮した蛇の抜け殻があったことを覚えています。

 

蛇という存在を悪しきもの、邪なるものとして、神話や民話の中に登場させる姿もあれば、

ニシキヘビのように、一家の軒下に一匹いると、その蛇が家の守り神として

大事に、受け継がれていく場合もありました。

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民藝と、エネルギーからつながるユートピア

すばらしい一冊の本に出会ったとき、その本はいつ書かれたものであるとか、著者の生まれた西暦から今現在を逆算し、生きていれば何歳。であるとか、何百年も遡った時代から、すでにこんなことが考えられ、憂い、変化させようと行動にあたる人たちがいたんだ。ということに直面し、気づかされ時、どうしようもなく多くの感情がうごめきだしたりする。

最近いろいろな方面から、生き方・働き方・暮らし方・住まい方、大きな資本や産業革命が押し寄せてくる以前の各地域に根付いていた人々の暮らしの在り方について、興味を喚起される機会が多く、それにまつわる本を開いてみたり、話をきいたりしているのだけれど、その中で、とくに掘り下げてみたいと感じたひとつが『民藝』という切り口だったりもして。。
知識がないなりに自分で考え、それについて書かれたものを読んだり、触れたりしていく中で感じることは、『民藝』の「民」に当てられた「民衆」という価値観が今ではほとんどその当時使われていたのと同じようにはイメージできないということ。 続きを読む

夏の予感と、つぶつぶ暗いクラムボン。

東京に出てきたばかりで、あまりにも不安げに頼りない日々を過ごしてきたことを思い返しながらも、この季節になると必ず、振り返らずにはいられない曲がある。

まだまだ涼しい夜風には少しずつ湿気の気配が高まり、これからさらに湿度が高まり、あのうだるような夏が来ることを思うと、待ち遠しいような、少しこわいような、なんとも浮ついた心持ちになる。 続きを読む

流動し、変動しつづけるものたち

中沢新一さんの著書、『純粋な自然の贈与』の中でインディアンの思考法について記された内容が印象的だった。

”インディアンの思考法では、贈り物は動いていかなければならないのである。贈り物といっしょに「贈与の霊」が、ほかの人に手渡された。そうしたら、この「贈与の霊」を、別の形をした贈り物にそえて、お返ししたり、別の人たちに手渡したりして、霊を動かさなければならないのである。「贈与の霊」が動き、流れていくとき、世界は物質的にも豊かだし、人々の心は生き生きとしてくる。だから贈り物は自分のものにしてはならず、たえず動いていくものでなければならなのである。(中略)
ところが、ピューリタンはそれを暖炉の上に飾ったり、博物館に収めたり、貯めたりする。(中略)インディアンにとって、それはまことに不吉の前兆だった。大地と人のあいだを動き、循環していたなにものかが、とどこおり、動きをとめていく。そのかわり、そこには個人的な蓄積が、将来の増殖を生むという、別種のデーモニックな力が、徘徊していくことになる。それは人々の物質的な暮らしは豊かにするだろうが、魂を豊かにすることは、けっしてないだろう。なぜなら人間の魂の幸福は、つねに大地を循環する「贈与の霊」とともにあるものなのだから。”

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平凡への帰りみち。

有名になってからでは生まれ得ないものがここにはいくつも存在していて、

誰かの目に気づかないことでそこからは絶えず新たに生み出されていて、

時折よいものが生まれた時があったならそれがただただ嬉しいばかり。

隣には一緒に喜べる人がひとり、いればいい。

それ以上でも以下でもなくて。

同じように繰り返す。食べて・寝て・生みだす日々を。

 

民藝のインティマシーを途中まで読んでいて、”「平凡」の難しさ ”という節にぶつかった。

柳宗悦さんが、国宝茶碗『喜左衛門井戸』を見たときの感嘆入り混じった喜びの表現のなか多用される「平凡」という言葉がキーワードになってくる。 続きを読む