カテゴリー別アーカイブ: 本のこと

冒険の始めかた、あるいは思考する場所

世の中には知れば知るほど、興味をそそられる人や、関心を掻き立てられる人、ぐーっと掘り下げて対峙してみたくなる相手はいるもので、ハンナ・アーレントは、そんな魅力と謎に満ちた女性のひとり。

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願わくば、徐々に徐々に近づいていき、どこまでも透明なまなざしとして、彼女の眼に映る景色や頭の中で組み立てられる様々な断片に触れてみたかった。そこではどんな日常が、思考が、なされていたのか、どういう現実と、向き合い続けた人生だったのだろうかと。

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労働する動物。社会化していく「わたし」を見据えて…

「もはや、社会とわたしは乖離している・・・?(クエスチョン・マーク)」。

人間は生まれた時には限りなく動物に近い存在ですが、時間をかけて教育を施され、社会に適応する「大人」へと、成長していく。

文明を築き上げ、それを維持・継続していく中で、「人間」としての豊かさを追求していくために、「社会化」は欠かせないひとつのキーワードなのだといえそうです。

ハンナ・アーレントの『人間の条件』を読みながら、人間とは、労働とは、活動とは、仕事とはなんぞや?!と、まじめさながらに感化されている今日この頃。

ちいさく、動きの鈍い頭はとつとつと揺れ動き、油断をすると霞みゆくこの目をめがけて、彼女のことばたちは鋭く突き刺さります。 続きを読む

神々とにんげんをつなぐ花

”たとえ明日世界が滅びようと私は今日林檎の木を植える”

ーマルティン・ルター

2013年の9月に出版された、藤原新也さんの『たとえ明日世界が滅びようとも』という本の中で、その言葉を知った。この本が出版された当時、福島第一原発からわずか20キロ圏内の福島県沿岸部の町へと移り住み、汚染された土壌に咲く花を生け続けたひとりの花人がいた。

神々と動植物、にんげんと。
それぞれの関係性や、あわいをつなぐ存在について。
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とびらの前で。哲学入門以前

正月明けのぼやけた頭を、がつんとやられる一冊に出会いました。

今はなき哲学者、川原栄峰さんの著作『哲学入門以前』というものです。
27歳になりたてのわたし自身にむけて、お祝いと激励の気持ちを込めて引用してみます。
ちなみにこの本は、昭和42年11月に発行されたもののようです。

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ことばと白玉と、心地のよい「あお」

沈んだ白玉が浮かび上がるのをすくい上げるように
そこに現れるのは、できたてほやほやの真っ白な「詩」であるような。

浮かんでくるのを心待ちにするのでもなく、
ときおり「ことば」は自らぽこぽこと浮かび上がる。

浮かび上がった「ことば」のひとつひとつを、
丁寧にすくい上げたいという気持ちはゆっくり確実に、育ちつつある。

いつかの「ことば」は
考えて発されるものではなく、あちらからぽこぽこと浮かび上がってくるものだった。

そういうことばは数少なくても、
初めてピアノの鍵盤を指で叩いた子どものように、
変幻自在に躍りだす。

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「聴く」ことの力から生じたうねり。

鷲田清一さんの著書、『「聴く」ことの力 ー臨床哲学試論 』を読んだ。

内容についてはこの後、” なが・なが ”と続いていくとして、本書のなかで音楽のように、どこまででも広がっていくようで、ただそこにとどまり続けているだけのようにも感じられる写真家、植田正治さんの重低的な伴奏写真があることの心地よさ。

なくてもいいけど、あったほうがいいものは、本当に多い。

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モノローグの中で鷲田さんは「哲学はこれまでしゃべりすぎてきた……。」と書かれている。そして、「アカデミックな哲学というものに、漠然と感じてきた ” ひっかかり ” である。」と続く。

まことのことばを知るためにこそ、わたしたちは語ること以上に、聴くことを学ばねばならないということだろうか。くりかえして言えば、わたしがここで考えてみたいとおもうのは、この〈聴く〉ということの意味と力についてなのである。

このようにして、〈聴く〉とはどういうことか、「語る」でも「分析」するのではなく、「聴く」ことをするような哲学のあり方について考えてみたいというところを出発点に、じわじわと話は深まっていく。
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蛇と蜘蛛

蛇を見たことがあるでしょうか。

薄ら暗い軒下のあたりや、石垣の隙間のようなところにはよく

脱皮した蛇の抜け殻があったことを覚えています。

 

蛇という存在を悪しきもの、邪なるものとして、神話や民話の中に登場させる姿もあれば、

ニシキヘビのように、一家の軒下に一匹いると、その蛇が家の守り神として

大事に、受け継がれていく場合もありました。

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民藝と、エネルギーからつながるユートピア

すばらしい一冊の本に出会ったとき、その本はいつ書かれたものであるとか、著者の生まれた西暦から今現在を逆算し、生きていれば何歳。であるとか、何百年も遡った時代から、すでにこんなことが考えられ、憂い、変化させようと行動にあたる人たちがいたんだ。ということに直面し、気づかされ時、どうしようもなく多くの感情がうごめきだしたりする。

最近いろいろな方面から、生き方・働き方・暮らし方・住まい方、大きな資本や産業革命が押し寄せてくる以前の各地域に根付いていた人々の暮らしの在り方について、興味を喚起される機会が多く、それにまつわる本を開いてみたり、話をきいたりしているのだけれど、その中で、とくに掘り下げてみたいと感じたひとつが『民藝』という切り口だったりもして。。
知識がないなりに自分で考え、それについて書かれたものを読んだり、触れたりしていく中で感じることは、『民藝』の「民」に当てられた「民衆」という価値観が今ではほとんどその当時使われていたのと同じようにはイメージできないということ。 続きを読む

流動し、変動しつづけるものたち

中沢新一さんの著書、『純粋な自然の贈与』の中でインディアンの思考法について記された内容が印象的だった。

”インディアンの思考法では、贈り物は動いていかなければならないのである。贈り物といっしょに「贈与の霊」が、ほかの人に手渡された。そうしたら、この「贈与の霊」を、別の形をした贈り物にそえて、お返ししたり、別の人たちに手渡したりして、霊を動かさなければならないのである。「贈与の霊」が動き、流れていくとき、世界は物質的にも豊かだし、人々の心は生き生きとしてくる。だから贈り物は自分のものにしてはならず、たえず動いていくものでなければならなのである。(中略)
ところが、ピューリタンはそれを暖炉の上に飾ったり、博物館に収めたり、貯めたりする。(中略)インディアンにとって、それはまことに不吉の前兆だった。大地と人のあいだを動き、循環していたなにものかが、とどこおり、動きをとめていく。そのかわり、そこには個人的な蓄積が、将来の増殖を生むという、別種のデーモニックな力が、徘徊していくことになる。それは人々の物質的な暮らしは豊かにするだろうが、魂を豊かにすることは、けっしてないだろう。なぜなら人間の魂の幸福は、つねに大地を循環する「贈与の霊」とともにあるものなのだから。”

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平凡への帰りみち。

有名になってからでは生まれ得ないものがここにはいくつも存在していて、

誰かの目に気づかないことでそこからは絶えず新たに生み出されていて、

時折よいものが生まれた時があったならそれがただただ嬉しいばかり。

隣には一緒に喜べる人がひとり、いればいい。

それ以上でも以下でもなくて。

同じように繰り返す。食べて・寝て・生みだす日々を。

 

民藝のインティマシーを途中まで読んでいて、”「平凡」の難しさ ”という節にぶつかった。

柳宗悦さんが、国宝茶碗『喜左衛門井戸』を見たときの感嘆入り混じった喜びの表現のなか多用される「平凡」という言葉がキーワードになってくる。 続きを読む

はかなく、女々しき感受性。

批評の価値はどこにどの程度あるか。そんなことは考えるまでもなく、世の中には批評や批判が溢れている。

小林秀雄さんの本を読んでいると、どれほど広い視野で、かといって常々高い所から、全体を見渡すばかりの客観的な姿勢に偏らず、どこまでも冷静な主観的意思を持って、真っ正面から踏み込んでいて、物事の真意やそこに込められた意図するところを汲み取りながら、真の理解を深めようとしている様子が伝わってきて・・・
わたしはただひたすらに脱帽し、膝を折り、地面にへたり込んで仰ぎ見るようにしながら彼の言葉を少しでも多く、この身体に染み込ませたい!ととても強く望むのだった。

大袈裟かもしれないけれど。こんな人がかつて世の中に存在したと思うだけで、当時を共にした多くの(敏感な)発信者や表現者たちは、身を引き締め、背筋を整え、心してその仕事(生き様)に取り組んでいけたのではないか。適度な緊張感もありながら、どこか安心感もある。そうしてその結果、とても真摯な担い手が生まれてくることに少なからずつながってきた。

そんな想像を繰り広げながら、1974年に発刊された「考えるヒント」を読み進めていった。

タイトルにもあるように、「考える」ということについて、あらゆるポイントから筆者はこちら側にその可能性を投げかけてくれる。 続きを読む

これから家族になっていく

わたしには現在、ふたつの家族がいる。

ひとつは成人するまで育ててくれたわたし自身を含んだ家族。
ふたつ目はわたしが結婚した相手の家族。

いままでひとつだけだった家族が、結婚を機にふたつに増えた。そしていずれは3つめの家族を、今度は自分たちで作っていくのだろうと思っている。

それは3つめでもあり、1つめと2つめの結びつき、延長でもある。
結婚したことで夫婦にはなったけれど、ふたりではまだ家族未満。家族はじぶんたちの力で少しずつ少しづつ、”成っていく” ものなのだと知った。

意識しなくても自然と家族になれてしまう人が大勢いる中で、わたしは「家族になる」ということを必要以上に考えてしまう。
そんな不器用というのか要領の悪い存在だからこそ、家族になる前段階の今からじっくり、家族について考えてみたかった。

読みたくて迷っていて、やっぱり読もうと購入をした雑誌、「考える人」。

表紙の写真があまりにも言い得て妙。
そして気になるテーマはずばり「家族ってなんだ?続きを読む

ウォールデン・チミケップ、湖の記憶

北海道の網走郡津別町にチミケップ湖という名の湖がある。アイヌ語で「崖を破って水が流れるところ」という意味を持つらしい。

北海道特有の、広くてどこまでも続いている幹線道路から舗装のされていないでこぼこ一本道に入り込み、ひたすら進む。カーナビも途中から居場所がわからなくなったように、その周辺をグルグル惑いはじめ少しずつ不安になる。

周囲からどれくらい森の奥へ入り込んでいったのだろう。
ようやく木々の間から西日が差し込み、湖の気配が感じ取れた時には心底ほっとして、安心感に包まれたのをよく覚えている。

その湖畔には、一軒の小さなホテルが佇んでいる。

湖の名前にちなんでだろう。その名もまた「チミケップホテル」。とても愛らしくて、一度聞いたら記憶のどこかに留めてしまいそうな、暗示的な響きの名前だ。

 

3年程前。雑誌で見つけたその存在がとても気になり、北海道を旅行した際、日程を無理やり調節してそのホテルに宿泊した。
たった一泊の滞在ではあったけれど、その時の記憶は不思議と時間の流れを忘れたように時折ぽわんと顔を出す。

そうして今回お正月休みを利用して手をつけた一冊の本を読みながら、わたしはまたチミケップ湖を取り巻くあの森のことを考えている。

森の生活  WALDEN, OR LIFE IN THE WOODS」著:ヘンリー・D・ソロー


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もう一度、会いたくなるひと。

メリークリスマス。

もうクリスマスの朝を楽しみにする年頃ではないけれど、子ども達の枕元にはたくさんの小包が届いただろうか。

そんなことを思う、12月25日。

 

今年を振り返ってのなにかしらを、きちんと記そうとすればするほどうまくまとまらず、書きかけの「  」はたまっていくばかり。

しかたがないのでお手紙かいた、さっきの手紙のご用事なあに?。。

今年は人をはじめ、本や場所や考え方。小さいけれど大きな出会いをいくつか経験した。いままでもそういったことは経験していたかもしれないけれど、このブログのおかげもあってより自覚のある一年だった。

そんな中、表題について書きたくなった。 続きを読む

イザナキとイザナミ

『古事記』に登場する、イザナキとイザナミという男と女の神さま。

イザナキとイザナミは、セックスへの ”誘い” 。とってもストレートな神さまの名前。

” イザナキとイザナミはその島に降り立って、まずは天の柱を立て、幅が両手を伸ばした八倍もあるような大きな神殿を建てた。そこでイザナキがイザナミに向かっていうには「君の身体はどんな風にして生まれたんだい?」と問うた。イザナミは「わたしの身体はむくむくと生まれたけれど、でも足りないところがあるの」と答えた。それを聞いてイザナキが言うには「おれの身体もむくむくと生まれ、生まれすぎて余ったところが一カ所ある。君の足りないところにおれの余ったところを差し込んでクニを生むというのはどうだろう…… ”

こんな風にして、イザナキとイザナミが数回の失敗を経て、性交をして生んだのが今、日本各地に散らばる”クニ”ということだそう。
ちなみに出会い頭で大切なのは、決して女から声を発してはいけないということ。はじめは男から声をかけるのが成功の秘訣だとか。 続きを読む