芸術や音楽」カテゴリーアーカイブ

on this bright Earth I see you / 空間と時間のあらわれる場所

「明るい地上には あなたの姿が見える on this bright Earth I see you」と題された現代美術家・内藤礼さんの展覧会について、ふり返ってみたいと思う。

茨城県の水戸芸術現代美術ギャラリーで10月8日まで開かれていた。

いつか体感してみたいと、以前から関心を寄せていた作家さんでもあったので、私は長年の夢(?)が叶ったような浮き足立つ気持ちで会場を訪ねた。 続きを読む

暮れていく、音を聴く。

日が暮れていく。

リンリンリンリンリンリンリン……

虫の鳴き声がする。スズのような、細かやな音色。

気がつけば夏ももうじき終わろうとしていて、

こうして落ち着いて日暮れを過ごすことをしばらくしていなかったと振り返る。

 

夕暮れ時のしっくり感。

暮れていくのにあわせてほろほろと解けていく感じ、私は好きだ。 続きを読む

とめどもない波のなかで出会い別れてゆらめき生きる。

ツイッターを覗かなかったら、
気がつかないまま何事もなくすぎていったであろう一日のおわりに、
ひとつの死に触れた。

正確にいうと、触れたのではなく「目にした」ことになる。
糸井さんの愛犬、ブイヨン先生が亡くなったのだそう。

【雪と桜とブイヨンと。】糸井重里・今日のダーリン3月22日

そこまでの「ほぼ日」愛好家でも、大の愛犬家でもないわたしが、どうしてこんな風に立ち止まってPCに向かっているのか、不思議な気もする一方で、ふと思ったことがある。 続きを読む

内において満たされるもの

この冬、とっぷり影響を受けて、まるで自分の半生がすっかりその子と同一化しているような感覚で魅了された女の子がいた。

名前は「道ちゃん」。

道ちゃんのまわりには、愉快で懐深く、ほんものへと導いてくれる大人が大勢いる。道ちゃんは、自らもほんものを求めて生きる大人たちから、たくさんの愛を注がれて育つ。

ときに迷い、きょろきょろと身をもって必死のさまで道を求めると、然るべき方向に光りを照らし出してくれる誰かしらが、いつも身近に控えてくれていたりもして。なんだかとっても、恵まれている。”恵み”とはこういう環境で、すくすくと健やかに育っていくことをいうのだろうなぁと、ウンウン唸る。 続きを読む

深い闇から生まれ、深い闇へと消えていくこと

こんにちは2018年。

年末年始にかけて、2010年に刊行された月刊「目の眼」別冊『サヨナラ、民芸。こんにちは、民藝。』を読みました。

この2,3年、とても身近なところで「民藝」をキーワードにした動きには触れつつも、書籍などを通して語られる「民藝」に触れることをすっかり先延ばししてきたこの間でもありました。 続きを読む

めくるめく、『魯山人の料理王国』

今年の誕生日に一冊の本をいただいた。
ページを開かずに年を越すのもどうかと思い、意を決して扉をひらく。

作者は北大路魯山人。本のタイトルは、『魯山人の料理王国』。

うす白色のペーパーにお行儀よく包まれた、濃緑色の布貼りの本。といっても、2011年に新装復刻されたものだそうで、歴史をまとったような重々しさは見当たらない。

箱入りの本というのは、少し緊張する。

かつての本といえば革張りや活版といった意匠を凝らし、仲間うちの彫り師さんに装丁用の版画を手がけてもらったり、好みの布をあてがったりもしたのだろう。
「これでもか」というこだわりを凝縮し、仕上げにグラシンペーパーの衣をまとって箱におさまり、ようやく完成。

そんな風に贅沢を尽くして、一冊の本はつくられていたのだろう。でもそれは、四半世紀もむかしの話。 続きを読む

わたしと、花々と星々と。

きのう、こんなことを考えた。

一年は12ヶ月で、12月31日の次の日は1月1日。今年は2017年。
2017年12月31日の次の日は、2018年の1月1日になる。
そして2018年1月3日、わたしは29歳・・・・・・になる!

重要なのはわたしが29歳になることではなくって(もちろんそれも大事だけれど)、どうして一年は12ヶ月で13ヶ月でも14ヶ月でも35ヶ月とかでもなくて、12月31日の翌日は1月1日なんだろうということ。

例えば永遠と、12月31日の次の日は13月1日、13月30日、14月1日・・・・・・・
みたいになったら歳の数え方も変わるんだろうって。

ちなみに例えば1年365日という区切りがなかったら、わたし達はどんな風に歳を感じて生きていくんだろう。

どうしようもなさそうなことばかり考えている、そんな28歳の年の瀬。
大人になるどころか、夢見る少女に逆戻りしている場合では、ないハズ。

みんながなんとなく区切りを感じられて、ここで一周、一区切り!
またひとつ歳を重ねるんだって思えることは、人生の充実感、満足感に少なからず寄与しているんだろうなぁ。

今日から少しずつ、日がのびていく。

さいきん時間とか空間とか、歴史性について、(1920年代あたりを中心に)ぼんやりぼんやり考えています。それは昨日お話したハイデガーの『存在と時間』の影響もそうなのだけど、それよりもずっとずっーと、犬養道子さんの『花々と星々と』の影響がふんだんなのです! 続きを読む

忘れてしまった、「いのち」の食べ方

私たちは今年、ハイデガーの『存在と時間』という著作をテーマに、自分たちの”いま”をひもときながらものごとを考える訓練をしています。

今回のお話は、そんな『存在と時間』の関心(気遣い)や、不安についてわたしが考えたまとめです。冬は「食べる」が楽しい季節!飲み過ぎ、食べ過ぎはたまにキズ・・・


5月、味噌を仕込む(日光横川・太一つぁんの店)

”カリブーであれツンドラの木の実であれ、人はその土地に深く関わるほど、そこに生きる他者の生命を、自分自身の中にとり込みたくなるのだろう。そうすることで、よりその土地に属してゆくような気がするのだろう。その行為を止めた時、人の心はその自然から離れてゆく。”

ー『イニュニック[生命]』星野道夫 著

”生きる者と死す者。有機物と無機物。その境とは一体どこにあるのだろう。目の前のスープをすすれば、極北の森に生きたムースの身体は、ゆっくりと僕の中にしみこんでゆく。その時、僕はムースになる。そして、ムースは人になる。次第に興奮のるつぼと化してゆく踊りを見つめながら、村人の営みを取りかこむ、原野の広がりを思っていた。”

ー『イニュニック[生命]』星野道夫 著

”私たちが生きてゆくということは、誰を犠牲にして自分自身が生きのびるのかという、終わりのない日々の選択である。生命体の本質とは、他者を殺して食べることにあるからだ。近代社会の中では見えにくいその約束を、最もストレートに受けとめなければならないのが狩猟民である。約束とは、言いかえれば血の匂いであり、悲しみという言葉に置き換えてもよい。そして、その悲しみの中から生まれたものが古代からの神話なのだろう。”

ー『旅をする木』星野道夫 著

ハイデガーは「存在と時間」から、何かしらの”真理”と呼ばれるものへ迫ろうと試みる。そこから見えてくることは、時間の有限性や存在するための世界という開かれた空間性。有限な時間の先には「死」がある。こうした議論のなかで「食べる」ことは話題に上らない。けれど、「食べる」という行為は、私たちが生きていく基盤の営みでもあるハズで…。 続きを読む

時間のうえを歩いてね

 

「感性と理性のあいだにあるものは何か?」先日、ある方からこんなお題をいただいた。

この間しらずしらず、すでに自分の前を歩く、圧倒的な迫力をもつ大人たちの言葉を受け取るばかりになっていた自分に気がついた。時間が経てば立つほど、わたしは投げられたたくさんのボールたちに埋め尽くされるように、窒息しかけているではないか。拙い出来ばえでも即座に自分の言葉で考えて投げ返さなくちゃいけない。それが健全さの基本の”き”。

受信と発信。入力と出力。

物事は常に往還する動きのなかで生き生きと生かされる。
動きを止めてしまうのは、心にも体にも不健全なんだということにようやく気がついた。

わたしはもう一度、ボールを受け取った自分に向き合いたいと思う。拙い言葉を紡いでいこう。

少しかための文章だけど、彼の問いを受けとったわたしの応答を以下にそのまま引用します。
昭和村のまとめもそうだし、出発点のこの場所に記していきたいことは山ほど溜まってる。

読みながら、一緒に考える足場となれたらいいなぁと、思います。

不完全という完全

Q.「感性と理性の間にあるもの」とは
→ A.   人間的ないとなみ、人間的なふるまい

「何をもって人間的といえるのか?」 続きを読む

冒険の始めかた、あるいは思考する場所

世の中には知れば知るほど、興味をそそられる人や、関心を掻き立てられる人、ぐーっと掘り下げて対峙してみたくなる相手はいるもので、ハンナ・アーレントは、そんな魅力と謎に満ちた女性のひとり。

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願わくば、徐々に徐々に近づいていき、どこまでも透明なまなざしとして、彼女の眼に映る景色や頭の中で組み立てられる様々な断片に触れてみたかった。そこではどんな日常が、思考が、なされていたのか、どういう現実と、向き合い続けた人生だったのだろうかと。

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食べるの”闘い”と、生きるという仕方。

降って降って降り続いた雨が上がると、
忘れたつもりで箪笥の奥にしまいこんだ残りの暑さを思い出す。

あぁ、まだ暑くなるのね。つい先日のはずの夏が、やけになつかしく感じます。

気分はすっかり秋なので、おすそ分けしてもらった栗を剥いて栗ごはんをつくりました。

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実家の畑でとれた栗。 続きを読む

”もう一度結びつける”場所

クートラスは”生”が好きだった。どんな醜悪な姿でも生きているものの姿が好きだった。

クートラスは愛情のある視線に見守られていることがいつも必要だった。

クートラスの描く天使は可愛い顔をしてハートを差し出しているエロスである。
優しくて子供のように純朴な、ちょっといたずらっ子っぽい表情で飛んでくる。
それで、油断していると、一瞬のうちに、とてつもなく大きな力に揺るがされ、夜よりも深くて暗いものが身体を包んでしまう。そんな神話の入り口みたいな接吻というのがあるものだ。……

『ロベール・クートラスの思い出』より

静岡県長泉町、ベルナール・ビュフェ美術館にて会期中の企画展、
ロベール・クートラス 〜僕は小さな黄金の手を探す

「僕のご先祖さま」の一枚と出会い、直感的に惹かれた相手。

出会って、対面し、彼と晩年を共にした岸さんの著書を読み、直感は計り知れない共感となりました。

彼の”生”へのこだわり。愛を求めて与えて、使い果たしていくような繊細さ。

残されたカルトやご先祖さまの肖像のなか、クートラスはいつまでも生き続けることができる”永遠性”の居場所を生み出せたのかもしれません。

こんなにも生きることにいのちを使えた彼が、たまらなくいとおしい。

    

 

書きかけの記録や記憶を、宙にぶら下げてどろん。

あれもこれもしたいことが山済み。

あれもこれも追いつけなくて途方にくれてもしかたがないので

諦めて、宙ぶらりんにぶら下がったりどろんする。

焦りは禁物、世は情け。

 

分厚い本に囲まれて。

数千年かけて蓄積されていく蔵書はいまも日を追って増え続け、

これ以上増やしてどうするの?なんて立ち止まったらおかしな人で、

みんな必死で増やして進んで、みじかないのちをくりかえす。

ここやあそこに記された手触りのないことばたちはどこに保管されどこを漂う?

 

20世紀の百年は

人間が人間を超克しつづける時代だったかもしれないけれど、

ここへきて人間のなすすべはなく

自然と切り離し、強固に作り上げられたジャングルのなか

揺れ動く大地を鎮めることもできずに祈り方すら忘れてしまった

 

意味の追求も虚しくぶら下がったままかもしれない

意味をさがすのはもうやめたほうがいい

 

生かされているものが生かされている間にできることは限られている

誰かのせいも、誰かの真似も、誰かの目線もひゅーんと飛び越えて、

わたしのいのちに責任をもって、いまをいきる。

 

そしていまは進み続ける。

 

”彼は山頂にあって
「最高の山はどこから来たのか」とたずね、
「それが海から生まれた」ことを、岩壁に刻まれた証拠で確かめる。
「いとも高いものはいとも深いものが高まって成ったものだ」。”

なのだそう。
ニーチェ…
ツァラトゥストラ…

 

日本という島、は海から生まれた。

深い海の底から。

いとも高い山々はいとも深い海の底から海面を抜け、空をめざした。

ここはそういう島。

足元には眠りからさめた深い海の山々がひろがっている。

なみだを拭いて、生きなきゃいけない。

 

 

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