自然について」カテゴリーアーカイブ

昭和のふゆと、大根と。

冬は「ふゆ(増殖する)」の季節である。

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”初期の日本の市場では、三種類の交換がおこなわれていました。市場は山から霊威ある精霊の化身を迎える「接待(イツ)く」庭と考えられるような特別な場所に設営され、そこには山の神をあらわす装束を身につけた山人が、「山づと(山からの贈り物)」をもって、群行出現したことが知られています。山は、里に暮らす人々にとっては、おそるべき霊威に満ちた領域で、そこに満ち満ちている眼には見えない霊的な存在が、市場にあらわれて山づとのような象徴物を、里人との間で交換するというのです。
また市場は歌垣のおこなわれる場所でもありました。若い男女が近隣や遠方からも性的なパートナーを求めて市場に集まり、そこで歌垣を開いて、気に入った相手を探すのです。そこでうまくいくと、将来の結婚相手がみつかります。結婚は女性を仲立ちにして、集団同士が結びつきをつくることを意味していますから、ここでも市場は社会的な交換を実現する場所だということになるでしょう。(中略)
 日本の事例では、市場はきまって冬の季節に開かれた、と折口信夫は書いています。冬が「ふゆ(増殖する)」の季節であったからです。”

中沢新一著『野生の科学』第5章 トポサイコロジーより

昭和の冬はまさにそう、増殖の”ふゆ”だと合点しました。 続きを読む

もういくつ寝ると…

屏風のように正面にそびえる山並みの向こうに暮れていく日と、
ほのかに醸された夕暮れのあかもいよいよ引いていく。

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場所から場所への移動と、この間(一連のここまでの流れのなか)に感じた気持ちや思いを自由に行き来させる行為は、少しだけ似ている。

2015年の幕引きと、2016年の幕開けという境。
グレゴリオだけど、人々のきもちは嬉々として空中をたゆたうばかり。 続きを読む

母の不在、無知の”ち”(知・地・池・値…)

すこーん!と突き抜けるように清々しい朝。
もう何日か経つと、冬至ということで、お日さまの光がてっぺんまで弱まっていく、フィナーレの数日間ですね。

弱まって転ずる。そんな佳境の”いま、ここ”です。
ぬくぬく。かぼちゃ団子。。

 

ひたすら動き続けるなかで、芽生えたひらめきもすぐに掬いあげることなく、泳がせたまま流れに委ねる日々は、一層ふしぎな感覚でながれてゆきます。 続きを読む

かろやかなねいろ

まさか、まさか。

まさかり担いだ金太郎。

うーんと空いてしまいました。うっかりすっかり。

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この間たんに、

畑を耕すじかんをおろそかに、していたわけではないけれど・・・

じーっと沈殿させるように、

きもちを落ち着かせることはなく、

季節は立冬を迎え、旧暦では神無月入り。

風が冷たくなりました。

 

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自然とにんげん、変わらないこと。

満月の夜は、なにやらそわそわと、どこかでもぞもぞと、なにかが蠢きあっているような、

ざわついた感じが漂いました。それもすでに過ぎたることの真昼のさなか。

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風の勢いに応じて流れゆく雲は、自分がどこに向かってどこに流れ着くとも知らず、

少し早すぎるから速度を遅めようなどと、調整する隙もなく、

風そのものの勢いや流れに身を任せ、どこまでも過ぎていくし、流れに乗っては運ばれていく。

 

どこかに到着し喜びを噛み締めることもなければ、移動の最中にかたちはどんどん変わり続ける、かなしみもうれしみも、流れ流れ刻々と変化。 続きを読む

死と再生、終りと始まり。

満月のときは過ぎました。
わたしは「スーパームーン」という言い方が好きではありません。

だったら「超満月」でもいいのでは?・・・個人的には推奨したい。
そんなことを思いつつ、グレゴリオ暦の9月は今日で幕を閉じます。

和暦の今日は葉月の十八日。
愛用中の『和暦日々是好日』という手帳には明恵上人の「あかあかや月」の詩と、”白秋”についての記述があります。

ー白秋ー

陰陽五行では秋は白を司る。
白は「死と再生」を象徴し、生々流転、命の循環を伝える秋の色。
神前で着る麻衣、喪服もかつては白一色であった。
白は無色透明な色、または光そのものをさす。
すべての命は光から生まれ、光に還る。
色はその中に生まれる変化、喜怒哀楽の色。

ー「和暦日々是好日」より

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収穫のウタ〜山咲み〜

春に植えた、小さくてひょろひょろとしたみどり色のイネたちは、秋になり収穫の時を今か今かと待ちわびています。
見渡す限り黄金色にかがやくその圧倒的なまでの色づき加減に、どうしようもない喜びが湧き上がるばかり。

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人々は大地や山や川、風や自然のかみさまに祈りと心からの感謝を捧げ、収穫のときに入る。 続きを読む

感受性のさき。

鬼のように怒りに身を任せ、その体内を流れる水という水で、ひとの世界を覆い尽くした今回の台風。

まだまだ刻々と事態が変わっていく中で、私たちの目に映った4年半前の既視感。

そういえば去年のこの時期は、広島の土砂災害、夏には御岳山の噴火、木曽での土砂災害もあった。水という水の勢い、多すぎる水がもたらすのは恵ばかりではない。特に、土との付き合いを疎かにしてしまっている今のわたしたちには、こうしたことが起きるたびに痛感させられる。

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どうしたら、この猛々しく荒ぶる自然をなだめながら、上手にやっていけるんだろう。。

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時と秋

時と秋はイコールで結ばれている。

秋といえば、時だし、時といえば、秋なのだそうな。

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こちら側やあちら側。

そこかしこでリリリリリリ、ジジジジジジジ、リンリンリンリンリン、チチチチチチチ・・・・・・・・・と織りなす虫虫の声は、

目にはさやかにみえねども・・・

どうしたってもうすでに、はっきりとした「秋」をおもわずにはいられない。 続きを読む

物語というのは、往々にして。

久しぶりに自宅の机に座り、ほっと息をつく瞬間。
帰ってきたなぁ〜。という、なんとなくしみじみとした感を覚えながら、それでもまだ後の祭りにしばらくは追われそうです。

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現実的にも観念的にも、「も〜うお腹いっぱい!」
バクバク食べて、ゴクゴク飲み込んで、むしゃむしゃ咀嚼する。
消化してる暇もなかったので、内臓はだいぶお疲れ気味。。

夏はたくさんの野菜が採れる。夏はたくさんの虫が蠢く。有り余って、おいしいところだけつまみ食いしても、翌朝の畑には、たわわの夏野菜が収穫のときを待ち望んでる。 続きを読む

昭和村スタンダードを探る。

重たい瞼をこすりながら、現地リポート!・・・

ではありませんけれど。。
あまりにもたくさんの洗礼を浴びた今、ことばに残しておけること(が少しでもあるとしたならば)をさらりと、一旦頭を整理するように、走り書き的に残しておこうかなと思います。

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わたしは今、福島県奥会津地方に位置する昭和村という、小さなようで以外と大きな、由緒正しき(それこそ使い古されたことばのひとつ)” 原風景 ”が今も生き生きと、人々の暮らしと調和した村を訪れています。 続きを読む

コツとコツ(責任とか、継続とか。)

責任とか、継続ということが久しく苦手だった。
「だった。」のではなく、今も苦手「だ。」

 

責任とか継続は、続いていくこと、繋げていくこと、積み重ねていくことの重なり合いで成り立っている。
成り立っているというよりむしろ、「継続」していく先に、自然と伴う「責任」があるのかもしれない。 続きを読む

山門をくぐり耳にした「かなしきのうた」

「かなしきのうた」阪村真民

たたけたたけ
思う存分たたけ
おれは黙って
たたかれる
たたかれるだけ
たたかれる

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早朝の山門をくぐり抜け、鎌倉円覚寺の夏期講座で和尚さんから耳にした詩の冒頭。
「かなしき」とは、鍛冶屋の鉄砧(かなしき)・鉄床のことを歌っているそうで、和尚さんはこの詩になぞらえ、「たたかれてたたかれて揺らがないものができる。そしりとほまれの間で揺らぐことがない(精神)が生まれる」と、無関門「離却語言」についてお話をしてくださいました。

今期で80回目の開催となる円覚寺の夏期講座、4 日目に集まった人々はおおよそ千人。
お堂から溢れた人は廊下や下駄箱、縁側や庭先に溢れ返り、みな熱心に姿は見えずともマイク越しに聞こえてくる講師陣のお話しに耳を傾けます。
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