自然について」カテゴリーアーカイブ

懐かしさと喜びの自然学と、右の内耳。

” 人は一日一日をどう暮らせばよいか。
 こんなことは普通、放っておいても自ずからよろしきにかなうことで、問うまでもないのですが、いまは普通の時代ではありません。

 実際、この講義の最後に毎年、作文を書いてもらうのですが、それを読んでいますと、みなさん口々に「来る日も来る日も生き甲斐が感じられない」と嘆いているように聞こえます。みなさんにとって、一日一日をどう過ごせばよいかが、深刻な問題になってきている。 ”

時は1971年度。京都産業大学の教養科目として開講された岡潔による講義「日本民族」をもとに編者(森田真生さん)がまとめた『数学する人生』の一章「最終講義 懐かしさと喜びの自然学」は、このように始まる。

この一節に触れて「たしかに、そうかも」と私は思った。

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小さないのちが芽生えたら

春になって陽射しが賑やかで、
鳥たちのさえずりがどの季節にもまして軽快な今日、このごろ。

陽が沈んだら、まだまだひゅーんと冷え込んで羽織ものには油断がならない。

さてさて、久しぶりの投稿。
何を書くかということは、しばらく前からあたためていて。

この度、わたしの胎内に宿った小さないのちの存在について記してみたいと思う。 続きを読む

だれのつくったものでもない自然、とともに

その日、北海道で起きた地震のことを知ったのは、羽田空港へと向かう電車の車内。早朝のことだった。

無意識に開いたスマホの画面に映し出される災害速報に、内心どきりとしたものを感じながらも、空港に到着。新千歳空港行きの飛行機は欠航が相次いでいたけれど、旭川行きは運行している。事態の全貌は見えてこないけれど、同じく北を目指す人たちに促されるように、私たちも搭乗手続きを行なった。 続きを読む

「工芸」という選択

先日、「工芸」に変わる適切な言葉がないかという話題がもちあがった。

どうやら一般的に「工芸」という一語は、手仕事の民芸品だったり、木彫品だったりと、「伝統的」という言葉に引きずられながら、由緒正しき手の仕事として受け止められることが多い様子だった。

現代では一般化している、機械の製造工程を含めた「ものづくり」は、果たして「工芸」の括りからは弾かれてしまうのだろうか。

立ち返って、私も考えてみた。 続きを読む

からむしと暮らし。

 

先日(8/5 sun)都内にて、古いから美しいのではなく、美しいから古くいられる  暮らしの中に生きる「からむし布」とは?というテーマをもとに、人生初めてのイベント登壇を行いました。

この間、一緒に走り続けている、灯台もと暮らし編集部と昭和村からむし振興室協力のもと、織姫研修生のお二人、哲学者の鞍田崇さん、テキスタイルデザイナーの須藤玲子さんにご登壇いただき、40名ほどのみなさんにお集まりいただき、無事にイベントを終えることができました。 続きを読む

とめどもない波のなかで出会い別れてゆらめき生きる。

ツイッターを覗かなかったら、
気がつかないまま何事もなくすぎていったであろう一日のおわりに、
ひとつの死に触れた。

正確にいうと、触れたのではなく「目にした」ことになる。
糸井さんの愛犬、ブイヨン先生が亡くなったのだそう。

【雪と桜とブイヨンと。】糸井重里・今日のダーリン3月22日

そこまでの「ほぼ日」愛好家でも、大の愛犬家でもないわたしが、どうしてこんな風に立ち止まってPCに向かっているのか、不思議な気もする一方で、ふと思ったことがある。 続きを読む

食べものと、環境と、自己治癒力。

気持ちがはやる春。週末、思いつきで那須へ向かった。

天気も薄曇りで、北はまだまだ冬のなごり。
わずかに細雪がちらついていた。

目的は湯治、湯に浸りたかった。
那須には好きな温泉がある。その名も「鹿の湯」。

洗い場もシャンプーもドライヤーもない。
目的はシンプルに。服を脱いで、ただそこに身を浸すだけ。
常連さんも多く通う、生粋の湯治場。 続きを読む

忘れてしまった、「いのち」の食べ方

私たちは今年、ハイデガーの『存在と時間』という著作をテーマに、自分たちの”いま”をひもときながらものごとを考える訓練をしています。

今回のお話は、そんな『存在と時間』の関心(気遣い)や、不安についてわたしが考えたまとめです。冬は「食べる」が楽しい季節!飲み過ぎ、食べ過ぎはたまにキズ・・・


5月、味噌を仕込む(日光横川・太一つぁんの店)

”カリブーであれツンドラの木の実であれ、人はその土地に深く関わるほど、そこに生きる他者の生命を、自分自身の中にとり込みたくなるのだろう。そうすることで、よりその土地に属してゆくような気がするのだろう。その行為を止めた時、人の心はその自然から離れてゆく。”

ー『イニュニック[生命]』星野道夫 著

”生きる者と死す者。有機物と無機物。その境とは一体どこにあるのだろう。目の前のスープをすすれば、極北の森に生きたムースの身体は、ゆっくりと僕の中にしみこんでゆく。その時、僕はムースになる。そして、ムースは人になる。次第に興奮のるつぼと化してゆく踊りを見つめながら、村人の営みを取りかこむ、原野の広がりを思っていた。”

ー『イニュニック[生命]』星野道夫 著

”私たちが生きてゆくということは、誰を犠牲にして自分自身が生きのびるのかという、終わりのない日々の選択である。生命体の本質とは、他者を殺して食べることにあるからだ。近代社会の中では見えにくいその約束を、最もストレートに受けとめなければならないのが狩猟民である。約束とは、言いかえれば血の匂いであり、悲しみという言葉に置き換えてもよい。そして、その悲しみの中から生まれたものが古代からの神話なのだろう。”

ー『旅をする木』星野道夫 著

ハイデガーは「存在と時間」から、何かしらの”真理”と呼ばれるものへ迫ろうと試みる。そこから見えてくることは、時間の有限性や存在するための世界という開かれた空間性。有限な時間の先には「死」がある。こうした議論のなかで「食べる」ことは話題に上らない。けれど、「食べる」という行為は、私たちが生きていく基盤の営みでもあるハズで…。 続きを読む

さいきんのできごと。

気がつくと朝、お布団から出るまでにたくさんの時間を要する季節になりました。
すっかり冬、きょうは立冬です。

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 (紅葉も終わりに差し掛かる那須の山並み)

習慣というところからあまりにも遠ざかってしまったブログの更新ではありますが、
個人的な日々の記録は、9月の頭から細々再開したりもしているのです。 続きを読む

毎年繰り返される演目の名は「春」。

止まらない季節にふと足を止め、空を見上げる春。

都会も田舎も、いたるところ景色は桃色さくら色。

ぴちぱちと弾け、いきおいを放つ若葉群は青々と茂り、

活動のしらせに鳥どりは持ち前の歌声にみがきをかける。 ・・・

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過ぎ去っていくものはいつの時代もこころ儚くし、

はじめは嬉々として空ばかり見上げていた人々も、

いずれは我を思い出し、足早に歩み出す。

そこで起きたすべては大きな舞台、演目のひとつ。

わたしたちが信じて止まない架空の”日常”はより一層、それがもつ”日常さ”に拍車をかけるのです。 続きを読む

春と夢。

途切れ途切れ、夢をみた。
とても長いようにも感じるし、短くて切れ切れの断片のようでもある。

夢のなかではいつも、「わたし」という意識は存在するけれど、意識以外の実体を捉えることはむずかしい。

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現実でも付き合いのある馴染みの人たちの姿は、視覚的に捉えることができる。
それなのに、「わたし」の実体はそこには存在しない。

存在する意識と、実体のない「わたし」。
だから夢は、映画を見ているような、ものがたりの世界に入り込んでしまったような、
現実を離れた感覚でそこにある。

桜の花がもつ香りは、人を憂鬱なきもちにさせてしまうことがあるらしいと話に聞いた。 続きを読む