カテゴリー別アーカイブ: 時代と文化

食べるの”闘い”と、生きるという仕方。

降って降って降り続いた雨が上がると、
忘れたつもりで箪笥の奥にしまいこんだ残りの暑さを思い出す。

あぁ、まだ暑くなるのね。つい先日のはずの夏が、やけになつかしく感じます。

気分はすっかり秋なので、おすそ分けしてもらった栗を剥いて栗ごはんをつくりました。

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実家の畑でとれた栗。 続きを読む

昭和のふゆと、大根と。

冬は「ふゆ(増殖する)」の季節である。

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”初期の日本の市場では、三種類の交換がおこなわれていました。市場は山から霊威ある精霊の化身を迎える「接待(イツ)く」庭と考えられるような特別な場所に設営され、そこには山の神をあらわす装束を身につけた山人が、「山づと(山からの贈り物)」をもって、群行出現したことが知られています。山は、里に暮らす人々にとっては、おそるべき霊威に満ちた領域で、そこに満ち満ちている眼には見えない霊的な存在が、市場にあらわれて山づとのような象徴物を、里人との間で交換するというのです。
また市場は歌垣のおこなわれる場所でもありました。若い男女が近隣や遠方からも性的なパートナーを求めて市場に集まり、そこで歌垣を開いて、気に入った相手を探すのです。そこでうまくいくと、将来の結婚相手がみつかります。結婚は女性を仲立ちにして、集団同士が結びつきをつくることを意味していますから、ここでも市場は社会的な交換を実現する場所だということになるでしょう。(中略)
 日本の事例では、市場はきまって冬の季節に開かれた、と折口信夫は書いています。冬が「ふゆ(増殖する)」の季節であったからです。”

中沢新一著『野生の科学』第5章 トポサイコロジーより

昭和の冬はまさにそう、増殖の”ふゆ”だと合点しました。 続きを読む

とびらの前で。哲学入門以前

正月明けのぼやけた頭を、がつんとやられる一冊に出会いました。

今はなき哲学者、川原栄峰さんの著作『哲学入門以前』というものです。
27歳になりたてのわたし自身にむけて、お祝いと激励の気持ちを込めて引用してみます。
ちなみにこの本は、昭和42年11月に発行されたもののようです。

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森はすでに黒く、空はまだ青い。

マルセル・プルーストの小説『失われた時を求めて』の中で放たれるこの言葉に込められた暗示を、わたしはこれから先の人生のなかで、少しずつ紐解いていかなければならないような気がしています。

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「森はすでに黒く、空はまだ青い。」

全8冊からなる岩波文庫版を、読み終えるにはなかなか時間がかかりそうです。

このブログを始めて1年半が経ち、その間自分なりに興味関心があることを深めようと、手探りに人に会いに行き、話を聞いたり、本を読んだり、あちこちに足を運んでは、そこでの空気を直に「感じる」ということを率先して続けてきました。

その甲斐もあり、本来得意であった(むしろそれが唯一の武器であり弱点。鼻に付くもの。)自分にとっての「感受性・感性」というものを鍛えることは、少なからず強化されてきたのではないかと思っています。けれど、裏を返してしまうと、今までの行動は、目的を絞り込みとことんそれについて深めるというよりは、自分が一体”何を”求めているのかをひたすら闇雲に、漠然と”在る”だろう”何か”を探すために、手当たり次第に手足を伸ばし、視界を広げ続けた時間でもあったのだと思うようになりました。

そして実際のところ、そこで自分が「広がり」と感じているものは、あまりにも不安定で、漠然としていて、頼りなく「そう思う」「きっとそうだ」という程度にしか語ることのできない、ゆらゆらと揺らめくような心もとない、成分70%が思い込みの「広がり」と”思える”ものでしかないのでしょう。

ここから先、わたしは何を手掛かりに、どこに向かっていったらいいのか、この間に記録し続けたノートを読み返し、振り返ってみました。 続きを読む

彼女のまなざしが向かう先。

いよいよ今週末(あと2日!)で会期が終了する「ヘレン・シャルフベックー魂のまなざし」展について記しておこうと思う。

テーブルの上には、展覧会で思わず連れ帰った図録。シャルフベックのまなざしが、じーっとじーっと。こちらを見透かして、どこか遠くへと、その思いを投げ打っている。

ほんのわずか、顎先をキュッと尖らせて・・・

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山門をくぐり耳にした「かなしきのうた」

「かなしきのうた」阪村真民

たたけたたけ
思う存分たたけ
おれは黙って
たたかれる
たたかれるだけ
たたかれる

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早朝の山門をくぐり抜け、鎌倉円覚寺の夏期講座で和尚さんから耳にした詩の冒頭。
「かなしき」とは、鍛冶屋の鉄砧(かなしき)・鉄床のことを歌っているそうで、和尚さんはこの詩になぞらえ、「たたかれてたたかれて揺らがないものができる。そしりとほまれの間で揺らぐことがない(精神)が生まれる」と、無関門「離却語言」についてお話をしてくださいました。

今期で80回目の開催となる円覚寺の夏期講座、4 日目に集まった人々はおおよそ千人。
お堂から溢れた人は廊下や下駄箱、縁側や庭先に溢れ返り、みな熱心に姿は見えずともマイク越しに聞こえてくる講師陣のお話しに耳を傾けます。
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世界の隅っこでひそやかに。

BLOGOSに宮崎駿監督の会見内容の全文が掲載されていました。
とても貴重なやりとりがされている内容です。

そして監督が、「どんなことでも構いませんので、おっしゃってください。みなさんが疲れ果てるまでやります」と会見の時間をまるごと質疑応答に充てたということの意味深さ。

忘れないように、このブログにも内容を抜粋しつつ書き留めておこうと思います。

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女性性バクハツの時代。〜水と月で取り戻す、これからのバランス感覚〜

久しぶりに、女性性について思い込み全開で、書いてみたいと思います。

きっかけは、YUKIの新曲PV。
シシヤマザキさんとのコラボレーション作品『好きってなんだろう・・・涙』のPVがまるっきり、ふんだんに、女性性 ”バクハツ” の内容となっており、嬉々と興奮したことから。

女性性について、実は半年ほど前に一度だけ触れたことがある。
そこでは、コーヒーと本を片手に、「彼女たちは思想を手にしようとしている」という内容で、哲学を求め始めた女性たちは、一体どんな未開の力を秘めていて、これからどうなっていくのか、その成長を見守っていきたいと書いた。(その姿のどこかに、自分自身の願望を重ねていることは承知の介。)その時、ブログの最後で、わたしはこんな風に記している。

「その火種は巨大に成長したり、爆発したりしない。ゆっくりじっくり。奥までじわじわと。食べて生きて産み育てる為の火種。そういう類いであってほしい。」

2014年11月24日 彼女たちは思想を手にしようとしている|紡ぎ、継ぐ

 

そう書いておきながら、今回は「バクハツ」と記すことにした。・・・そう、「爆発」。そこにはとても熱いエネルギーが充満している。まるで各地でふつふつと活発化して、今にも溶け出してしまいそうなマグマのように。

女性性は今年に入り、急速に成長し、解き放れ、止めどなく流れ出しているように感じる。(ずいぶん都合のいい勝手な思い込みの視点かもしれないけれど。)
そんな風にして、近年、周りの女性たちは、それこそ自分の手で、今まで歪み続け、そのまま進んできてしまっていたあらゆる「バランス・調和」を、元に戻そうと動き始めた。(という仮説) 続きを読む

民藝と、エネルギーからつながるユートピア

すばらしい一冊の本に出会ったとき、その本はいつ書かれたものであるとか、著者の生まれた西暦から今現在を逆算し、生きていれば何歳。であるとか、何百年も遡った時代から、すでにこんなことが考えられ、憂い、変化させようと行動にあたる人たちがいたんだ。ということに直面し、気づかされ時、どうしようもなく多くの感情がうごめきだしたりする。

最近いろいろな方面から、生き方・働き方・暮らし方・住まい方、大きな資本や産業革命が押し寄せてくる以前の各地域に根付いていた人々の暮らしの在り方について、興味を喚起される機会が多く、それにまつわる本を開いてみたり、話をきいたりしているのだけれど、その中で、とくに掘り下げてみたいと感じたひとつが『民藝』という切り口だったりもして。。
知識がないなりに自分で考え、それについて書かれたものを読んだり、触れたりしていく中で感じることは、『民藝』の「民」に当てられた「民衆」という価値観が今ではほとんどその当時使われていたのと同じようにはイメージできないということ。 続きを読む

透明な眼差しの先にある「いつか見た風景」。

限りなく透明な眼差しを手に入れることができたとしたら、自分にもこんな写真が撮れたりするんだろうか?

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図書館でたまたま手に取った、北井一夫さんの「いつか見た風景」という一冊の写真集があまりにも面白く、食い入るように見入ってしまった。(相変わらず入ってばかりいるここ最近。出口が何処にあるのかなんて、知らぬ顔。)

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今、なぜ民藝か? 横軸の広がりから、縦軸の深まりへ。

昨晩、下北沢のB&Bで行われた「いまなぜ民藝か?ー手のひらから始まる暮らし、そして社会へ」というトークイベントに参加した。

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 ー濱田庄司邸を訪ねた時に撮影

今回お話してくださったのは、4月に『民藝インティマシー』という本を出版された、明治大学理工学部専任准教授 鞍田崇さんとRoundabout(お店)・OUTBOUND(場所)を通して活躍されている小林和人さん。

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『寂しさの力』と『わが母の記』から考える、これまでとこれからと。

しばらく前のこと。荻上チキさんのsession22で中森明夫さんという方をゲストに招き、著書「寂しさの力」についてお話しされていた。

その日はあいにくのお天気で、電車から眺めるランドマーク群は霧雨に霞み、ポッドキャストを聴き終わった後で、映画「おもひでぽろぽろ」の主題歌「愛は花・君はその種子」を聴きながら歩いて帰宅していたら、不思議にも浄化されていくように、泣けて泣けて仕方がなかった。

それからしばらく「寂しさ」の正体について自分でも深めてみたいと思いながらも、なかなかそうできずに、物語調にしてみたりしながら通り過ぎていたのだけれど、今度はcakesで誰もが持つ「さみしさ」の正体として同様の内容が取り上げられており、もう一度それについて考えてみたくなった。 続きを読む

アフリカってどこを指す?

今月号の『熱風』で” アフリカのいま ”という特集が組まれていた。

わたしの中のアフリカ像といえば、自分が暮らしている場所からはあまりにも遠く、そこで暮らす人々よりも先に、サバンナなど野生に生きる動物のイメージが進行してしまう程なので、アフリカについて知っていることはほぼ皆無。普段当たり前のように” アフリカ ”と見聞きすることはあっても、実際の” アフリカ ”を一括りにするのはあまりにもナンセンスだった。
その大陸面積はヨーロッパ全土と中国を足したものよりも広く、54ヵ国の国々から成り立っており、そもそも国としての「アフリカ」など存在しないということの不思議と、今なお文明が手付かずの夜には色濃い闇の世界がそこには多く残されているという未知への憧れ。

一体全体、みんながいう「アフリカ」ってどこを指す?・・・という疑問からの出発。 続きを読む

花が散るということは

この季節、街中の至るところに咲いている椿の花に目が留まる。

枝を埋め尽くすように満開に開く姿もそれは艶やかで見ものだけれど、わたしはどちらかというと枝から見事なまでに落下した「落椿」に目がない。

その光景を目にするたびに足を止めて記憶ばかりか記録に残したいと強い衝動に駆られてしまう。

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椿であれば、蕾がほんの少し開きかけて光と影を身に纏っているときか、このようにあっけないほど見事に落下した姿に驚くほどこころをかき乱されたりするのだから、散ってなお彼女たちが放つエネルギーはあなどれない。 続きを読む