カテゴリー別アーカイブ: 思うこと

鎧を外し、まろやかなとろ火を。

重たく身に纏っているひとつが、「思い込みの鎧」ということに気づかされるばかりの今日このごろ。

どこまでいっても「わたし」としての一人称の視点が、こんなにもわたし(自身)を苦しめ、身体を重たく纏い付くしてしまっているというのは、言われなければ気づけなかったことである。

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それと同時に、そうしたことを目の当たりにしたことで、より一層、本来の偏りがちのバランスは歪みを極め、一種極限的な力を発揮することにもなる。。

(もちろんそれは、あまり良いことだとは言えません。) 続きを読む

よく歩き、よく生きる

あっという間に7月も残すところ二日となりました。
月日の流れがこれほど早く感じたことは初めてです。
初めてと同時に、今後はますます、こうした回転は早まって感じられるようになるのでしょうか。

年を重ねなければ、気づけないことはこれからまだまだたくさん有りそうです。

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今日はよく歩くことと、よく生きることについて。

みなさんは「歩く」時に、なにを考えていますか?
何かを考えながら、音楽を聴きながら、特になにも考えずに、なんとなく…

そこには、単には括れないいくつもの「歩き方」があるということを、ジリジリと暑い灰色の道を、とつとつと歩きながら漠然と考えました。 続きを読む

このカラダやこのカタチ。輪郭はどこにある?

平日毎日かかさず更新していきます!・・・なんて言ってみたものの、早くも挫折ムードが匂い立つ上弦の月(まであと2日)。

ノルマを課すことは時に人をそこから遠くへ退けてしまう。そんな効用を感じたりしています。なんて言い訳を並べつつ、何を書こうかな。。

最近、不思議な縁あって、それこそ” 学びの源泉 “のような場所に日夜入り浸っています。 続きを読む

ことばと白玉と、心地のよい「あお」

沈んだ白玉が浮かび上がるのをすくい上げるように
そこに現れるのは、できたてほやほやの真っ白な「詩」であるような。

浮かんでくるのを心待ちにするのでもなく、
ときおり「ことば」は自らぽこぽこと浮かび上がる。

浮かび上がった「ことば」のひとつひとつを、
丁寧にすくい上げたいという気持ちはゆっくり確実に、育ちつつある。

いつかの「ことば」は
考えて発されるものではなく、あちらからぽこぽこと浮かび上がってくるものだった。

そういうことばは数少なくても、
初めてピアノの鍵盤を指で叩いた子どものように、
変幻自在に躍りだす。

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世界の隅っこでひそやかに。

BLOGOSに宮崎駿監督の会見内容の全文が掲載されていました。
とても貴重なやりとりがされている内容です。

そして監督が、「どんなことでも構いませんので、おっしゃってください。みなさんが疲れ果てるまでやります」と会見の時間をまるごと質疑応答に充てたということの意味深さ。

忘れないように、このブログにも内容を抜粋しつつ書き留めておこうと思います。

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女性性バクハツの時代。〜水と月で取り戻す、これからのバランス感覚〜

久しぶりに、女性性について思い込み全開で、書いてみたいと思います。

きっかけは、YUKIの新曲PV。
シシヤマザキさんとのコラボレーション作品『好きってなんだろう・・・涙』のPVがまるっきり、ふんだんに、女性性 ”バクハツ” の内容となっており、嬉々と興奮したことから。

女性性について、実は半年ほど前に一度だけ触れたことがある。
そこでは、コーヒーと本を片手に、「彼女たちは思想を手にしようとしている」という内容で、哲学を求め始めた女性たちは、一体どんな未開の力を秘めていて、これからどうなっていくのか、その成長を見守っていきたいと書いた。(その姿のどこかに、自分自身の願望を重ねていることは承知の介。)その時、ブログの最後で、わたしはこんな風に記している。

「その火種は巨大に成長したり、爆発したりしない。ゆっくりじっくり。奥までじわじわと。食べて生きて産み育てる為の火種。そういう類いであってほしい。」

2014年11月24日 彼女たちは思想を手にしようとしている|紡ぎ、継ぐ

 

そう書いておきながら、今回は「バクハツ」と記すことにした。・・・そう、「爆発」。そこにはとても熱いエネルギーが充満している。まるで各地でふつふつと活発化して、今にも溶け出してしまいそうなマグマのように。

女性性は今年に入り、急速に成長し、解き放れ、止めどなく流れ出しているように感じる。(ずいぶん都合のいい勝手な思い込みの視点かもしれないけれど。)
そんな風にして、近年、周りの女性たちは、それこそ自分の手で、今まで歪み続け、そのまま進んできてしまっていたあらゆる「バランス・調和」を、元に戻そうと動き始めた。(という仮説) 続きを読む

「聴く」ことの力から生じたうねり。

鷲田清一さんの著書、『「聴く」ことの力 ー臨床哲学試論 』を読んだ。

内容についてはこの後、” なが・なが ”と続いていくとして、本書のなかで音楽のように、どこまででも広がっていくようで、ただそこにとどまり続けているだけのようにも感じられる写真家、植田正治さんの重低的な伴奏写真があることの心地よさ。

なくてもいいけど、あったほうがいいものは、本当に多い。

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モノローグの中で鷲田さんは「哲学はこれまでしゃべりすぎてきた……。」と書かれている。そして、「アカデミックな哲学というものに、漠然と感じてきた ” ひっかかり ” である。」と続く。

まことのことばを知るためにこそ、わたしたちは語ること以上に、聴くことを学ばねばならないということだろうか。くりかえして言えば、わたしがここで考えてみたいとおもうのは、この〈聴く〉ということの意味と力についてなのである。

このようにして、〈聴く〉とはどういうことか、「語る」でも「分析」するのではなく、「聴く」ことをするような哲学のあり方について考えてみたいというところを出発点に、じわじわと話は深まっていく。
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踏み込み踏み込まれ、自分で育つ。

「育てる・育つ」ということについて考えてみたいと思います。
みなさんは誰かを育てたり、何かを育てたり、意識して「育てた」「育てられた」という経験はありますか?

そんなのあるに決まってきます。
わたしはこの世に産まれた瞬間、まだ瞼もしっかり開かない頃から、母という大きな存在・絶対的安心感という胸の中で、確かに大切に、見守られ、手を焼かれ、「大切、大切。」と思われながら、随分大きくなりました。そこには母だけでなく、ジョリジョリとした髭をこすりつけてくる父であり、祖母であり、祖父であり、学校の先生、習い事の先生、友達の両親という、小さな地域社会の様々な人の存在がありました。

多くの人々は、その感じ方に個人差はあれど、きっとそのように大切に見守られながら育ってきました。ある、一定の時期までは。

成長するにつれて、私たちは手をかけ大きなひさしとなり、傘となり、毛布のように包み込んでくれるあたたかいぬくもりを引き剥がし、外に出て行くことになりました。今までは育てられるばかりだったけれど、これからは自分で育っていかなくちゃならないからです。 続きを読む

時計の針、月の満ち欠け、初めての一人旅。

すっかり日が伸びて19時というのにまだまだ明るい。
ついつい一日の時間が延びているような錯覚に陥ります。

ほんとうは同じ24時間。
でも少しずつ、ほんとうはずれていて、4年に一度の閏年という調整日があったりなんかして。
月の満ち欠けや星の動きに頼らず時計の針、液晶の画面ばかりに頼るようになってしまうと、自らが持ち合わせている体内時計のあてにならないことすさまじく。

時計の針を持たずとも、年間のこの時期、このタイミングで、お互いに示し合うわけでもなく、活動したり、移動したり、産卵したり、している生き物たちは時間の流れをどのように感じて行動しているのかなぁ。と不思議でなりません。

 

わたしは特に自分のなかのリズムに鈍感な人間なので、より一層。
文明から放り出されたときに、生物としての危うさをひし・ひしと、感じたりなんかして。

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蛇と蜘蛛

蛇を見たことがあるでしょうか。

薄ら暗い軒下のあたりや、石垣の隙間のようなところにはよく

脱皮した蛇の抜け殻があったことを覚えています。

 

蛇という存在を悪しきもの、邪なるものとして、神話や民話の中に登場させる姿もあれば、

ニシキヘビのように、一家の軒下に一匹いると、その蛇が家の守り神として

大事に、受け継がれていく場合もありました。

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地方再生とアートのつながり

夏のイベントを調べる機会にさしあたり、いろいろと調べていると、気になるイベントに出くわした。

人口15人、わずか8世帯で秋田県内で最も人口が少なく、高齢化・過疎化・空洞化の進んでいる上小阿仁村(かみこあにむら)八木沢地区を舞台に今年4回目を迎えるイベントらしい。

秋田県のがんばる農山漁村集落応援サイト

KAMIKOANI プロジェクト秋田2015「ただ、ここに、在り続けたい。」

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画像:KAMIKOANIプロジェクト秋田

どうして気になったかといえば、「ただ、ここに、在り続けたい。」というメッセージが、あまりに切実すぎると感じたからかもしれない。 続きを読む

手から手へ。

とてもあたたかな場所を訪ねた。

どっしりとした風格にやわらかな安定感。

いかにもといった主張を感じることもなく、腰を下せば

ただただ穏やかにくつろげる。

 

安心と安定と、しずかな味わいのある、とてもあたたかな場所だった。

 

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BUKATSUDOの文化祭。勝手に潜入レポートの巻。

昨日、横浜の造船ドック跡地に昨年6月にオープンし、1周年を迎える街のシェアワーキングスペース「BUKATSUDO」の文化祭なるものにふらっと立ち寄ったので、その時の模様を勝手にお伝えします。

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というのも、ここの存在はオープン当時から知っていたけれど、きっかけがなく実際に足を運んでみよう!というところまで気が進まなかったというのが実際のところ。 続きを読む

流動し、変動しつづけるものたち

中沢新一さんの著書、『純粋な自然の贈与』の中でインディアンの思考法について記された内容が印象的だった。

”インディアンの思考法では、贈り物は動いていかなければならないのである。贈り物といっしょに「贈与の霊」が、ほかの人に手渡された。そうしたら、この「贈与の霊」を、別の形をした贈り物にそえて、お返ししたり、別の人たちに手渡したりして、霊を動かさなければならないのである。「贈与の霊」が動き、流れていくとき、世界は物質的にも豊かだし、人々の心は生き生きとしてくる。だから贈り物は自分のものにしてはならず、たえず動いていくものでなければならなのである。(中略)
ところが、ピューリタンはそれを暖炉の上に飾ったり、博物館に収めたり、貯めたりする。(中略)インディアンにとって、それはまことに不吉の前兆だった。大地と人のあいだを動き、循環していたなにものかが、とどこおり、動きをとめていく。そのかわり、そこには個人的な蓄積が、将来の増殖を生むという、別種のデーモニックな力が、徘徊していくことになる。それは人々の物質的な暮らしは豊かにするだろうが、魂を豊かにすることは、けっしてないだろう。なぜなら人間の魂の幸福は、つねに大地を循環する「贈与の霊」とともにあるものなのだから。”

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平凡への帰りみち。

有名になってからでは生まれ得ないものがここにはいくつも存在していて、

誰かの目に気づかないことでそこからは絶えず新たに生み出されていて、

時折よいものが生まれた時があったならそれがただただ嬉しいばかり。

隣には一緒に喜べる人がひとり、いればいい。

それ以上でも以下でもなくて。

同じように繰り返す。食べて・寝て・生みだす日々を。

 

民藝のインティマシーを途中まで読んでいて、”「平凡」の難しさ ”という節にぶつかった。

柳宗悦さんが、国宝茶碗『喜左衛門井戸』を見たときの感嘆入り混じった喜びの表現のなか多用される「平凡」という言葉がキーワードになってくる。 続きを読む